デザイン、装飾、美観―日本的とされるもの。

なぜ楽天などのECサイトはごちゃごちゃしているのか(起業家.com 2015.12.25)

チラシのデザインというとプライオリティが低いものに見られやすいですが、海外の著名なデザイナーが、某家電量販店のチラシに感動して持ち帰ったという話があります。そのような視点で見ると、ポストに投函される不動産のチラシとか、欧米文化ではみられないカオスとエネルギーがありますね(最近は洗練されたものも増えましたけど)。

こういった記事を読むと、「間」とか「余白」を大切にするのも日本の文化なんですが、ドンキホーテや「あえてちょっと迷いやすい構造を取り入れた」六本木ヒルズなど、ある種の「秩序ある混沌」も日本に受け入れられる文化なのかと思います。

装飾は、本質とは無関係か

日光東照宮や浅草寺を中心とした浅草という文化圏もそうですが、装飾や色使いなどにキッチュ(本質とは無関係な、表層的な飾りと言うべきもの)なところがあり、私は子供の頃から少し苦手なところがありました。それは、下町のおばちゃんが着る謎ブランドの強烈な色のファッションセンスに受け継がれているように思います。そういった感覚を自分の中に根付くアイデンティティの原型として、肯定的に捉えることができるようになったのは、ようやく三十路に突入した頃です。

この国には、アートを感覚的、表層的な装飾として捉える部分が根底にあるように思うのですが、その延長線上にまた日本のデザイン観もあります。そもそも芸術という概念が西洋から輸入されたものであることと同じように、アートとデザインの区別、そもそもデザインという概念が日本には存在しないのかもしれません。

優れた一個人のクリエイターにとっては難しいところですが、個人がコントロールしえない自然発生的(反知性的とも言えるかもしれません)、集合的なデザインは良くも悪くも日本人の感覚の中に根付いているように感じます。電線が張り巡らされた空や、明確な都市計画がないまま広がっていく日本やアジアの町並みも我々の原風景となっています。それを単にキッチュと呼んでいいものなのかどうか、わかりませんが。