『フランク・ゲーリー/Frank Gehry パリ-フォンダシオン ルイ・ヴィトン 建築展』を観ました

エスパス ルイ・ヴィトン東京でフランク・ゲーリーの展覧会を観ました。昨年パリにオープンしたルイ・ヴィトンの現代美術館「フォンダシオン ルイ・ヴィトン」の様々な模型が制作プロセスをおって展示されていました。
他に類例がないという点においてフランク・ゲーリーは特殊というべきイメージを持つ建築家です。「建築とはこういうものだ」と人々がとらわれている固定観念を軽やかにすり抜けていきます。
一方で「デザインとは?建築とは?」と建築そのものが強烈に語りかけ、デザインという概念の再定義を迫ってきます。美術館と言えど商業的な建築物に対して「作品」という言葉を使うのは躊躇われますが、フランク・ゲーリーが手がけた建築物は作品とよぶに相応しいものでしょう。
デザインには、個人的な表現や主観は存在しないのかという問題があります。私は近年の主流である「デザインに個性はいらない」という考え方は少しずるい使い方をされているな、と思っています。作られたものに対する職業的、もっと言えば個人的な責任から、暗黙の裡に逃避しているように思うからです。
「私には個人的な創作欲求も、主観もございません。すべてはあなたの意のままに」というのは聖人君子というより、後ろにどろどろとした欲望を隠して、肝腎なところで責任は負わない官僚的という印象すら抱きます。デザイナーは裏方ですが、当然ながらそれは社会的な責任や説明から無縁という意味ではありえません。

■ デザイナーは、利休かスネ夫か

デザイナーの理想は秀吉に対する利休の関係と言ったりします。或いはややコミカルに、ジャイアンに対するスネ夫というものもあります。
利休にとって秀吉との関係は、腹を詰めさせられる覚悟を持って、時には挑戦的にその緊張関係を持続させるということです。切腹させられたのは失敗だった、と利休が考えていたかはわかりません。スティーブ・ジョブズがいた頃のappleは、気に入らないことがあると、社員は即クビということもあったとよく言いますね。現代ではまた意味が違いますが、何らかそういった覚悟を持って仕事に取り組むという意味だと私は考えています。
スネ夫はそういった意味での覚悟は持たないし、関心もありません。クビになったらスネ夫にとっては失敗で、処世術そのものがスネ夫の本質と言うべきです。そこに人間味があり憎めない魅力があり、利休は死んでもスネ夫はきっと逞しく生き残るでしょう。
どちらも捨てがたいのですが、現代はスネ夫の時代と言えます。
ゲーリーは利休なのかスネ夫なのか、些末な概念を越えたところにいるのか。挑戦的な建築の数々をぎょっとしながら俯瞰すると、どのような実際的なプロセスを経て生まれるのか、その場に居合わせて呼吸を感じてみたいと思ったりします。

〈フォンダシオン ルイ・ヴィトン – オフィシャルサイト〉
〈経営者とデザイナーのあるべき関係は「秀吉と利休」に似ている 坂井直樹「デザインのたくらみ」〉
〈UIで一番重要なのは、社長と飲み友達になって、ジャイアンの横いるスネ夫的ポジションをとること 深津貴之〉

ESPACE LOUIS VUITTON TOKYO