写真が写すもの ― 現代における肖像画

ポートレートの撮影と言うのは、なかなか難しい。

私はレタッチャーでもフォトグラファーでもないから、芸能人の写真のレタッチを外部に頼んだりすると、もう皮膚移植してフェイスリフトしてるんじゃないかというレタッチしてくる人はざらにいて、それがそのままオーケーされたりする。

ただ私は特に、ビジネスライクなポートレートにおいて、「そこにその人が実在している」と言うリアリティーはとても大事ではないかと思う。素人でも画像修正がたやすい時代だからこそ、写真は「真」を写すべきだ。安っぽい美しさは、省いた方がよい。

特に経営者やビジネスマンが自分を覆い隠すようなポートレートはマイナスではないか、と思うのだ。表面的な美しさは(それそのものが商売道具ではないかぎり)、ビジネスのコンセプトやその人自身に対する理解をはぐらかす、邪魔な要素だ。

難しさは技術的な側面というより、主観が大きく交わりやすいところであり、当人の哲学も出てくるだろう。それでもプロフェッショナルな商売として「客観的な尺度」を提供する必要があり、その考え方をすり合わせる過程にこそ、私が提供する価値がある。

経営者が己をさらけ出すことを躊躇うのは、よくない。私が知っている優れた経営者は皆「目に見えている姿が全て」といった感じで、ある種の裏表のなさがある。自分の考えや意見をしっかり述べる人達で、そこに取り繕う様子がない。正しいこと、人とは違うことをきちんと主張することは、事業はもちろん人生においても重要だ。写真もそういった人となりを表現できるし、逆に取り繕えば、小細工が表れてしまう。

そもそも安易かつ過剰なレタッチは、今目の前にいるその人を否定することになるのではないか。

レタッチを否定しているわけじゃなく、適切に施すべきということなので、一方で写真を作り込むというのは大切だ。スマホでパシャっと撮ったようなものが、その人自身の真の姿というわけでは決してないだろう。実際に会ったら全く違う写真、というのも、その人自身が的確に表現されていれば、むしろよいのだ。

その意味では意図が明快であるとか、その人の独自のアイデンティティが表現されているものこそ、人に響くポートレートなのではないか。