クリエイティブというナイーブな価値観

欧文組版のコンサルトを依頼した著名なタイポグラファーが、あるクライアントのウェブサイト(弊社制作ではない)を見て、酷評していた。
私は社会的意義を見失った仕事をしながら、時代の流れに取り残されていることにすら気づかないグラフィックデザイン業界の問題を指摘した。
自分が関わっていない仕事に対して批判することは、社会人としての最低限のマナーを逸脱している。それは、試合に出ていない選手が「俺なら点が取れたのに」と言うような、子供じみた恥ずかしい行為だ。プロはプロの仕事に敬意を払うべきではないか。
私が詳しい説明を求めると、成果物の問題の多くはクライアント側にあるという主旨の回答だった。
しかし、「クライアントに理解がない」というのは的外れだろう。クライアントはプロではない以上当然であり、そもそもデザインはデザイナーのものではなく、クライアントの満足があってこそだ。「クライアントに問題がある」という発想自体がナンセンスだ。
行政が「国民に問題がある」、医師が「患者に問題がある」、ラーメン屋が「客に問題がある」などと言えるだろうか。
デザインだけがそれを許されるのであれば、それは単なる殿様商売だ。
デザインは何より、課題に対する有効性で評価されるべきビジネスの領域なのだ。
自分の満足いくものを作りたいのなら、デザイナーは自分のブランドを立ち上げ、その苦労とリスク、市場価値を実感すればいい。
ゼロに近いコンセプトから新しいものを生み出せるデザイナーは、本当に少なくなったと感じる。
この状況は、テレビドラマや邦画が漫画原作ばかりになっている現象と、どこか似ている。

それは本当に「文化」なのか

酒やお菓子などの嗜好品、美術に関わるデザインは量産され、デザイナーもポスターやカタログを作れば「自分の作品です」と誇らしげに語る。
しかし、嗜好品や美術分野はすでにデザインが過剰状態であり、テクノロジーが加速する現代社会において、もはや最先端とは言えない。
過剰包装が敬遠される時代に、過剰なデザインだけがいまだに称賛されている。
お酒やお菓子、美術にこれほどのデザインは必要なのだろうか。これらの嗜好品や美術自体は「文化」だとしても、そこに付随するデザインまでもが真に「文化」と呼べるのだろうか。
これは虎の威を借る狐のような話であり、単に「デザインが関与する文化的な一側面」にすぎないのではないか。
「好きだから」「やりたいから」そして「それなりに収益があるから」という理由で手がけているのだろうが、その労力の一部だけでも、より挑戦的な分野に向けられないものだろうか。
社会のライフラインともいえる重要な分野で不適切なデザインが放置されているとすれば、それはデザイン業界の怠慢であり、社会的責任の放棄といえる。
漠然と精神性や文化性を重視する姿勢は、デザイナーの劣悪な労働環境や、やりがい搾取、低賃金という形で跳ね返ってきているのに、その現実に気づいていない。
地域医療に貢献する町医者がいるように、地域に貢献する町のデザイナーがいてもよいのではないか。いや、「文化」以外の領域に寄り添える新しいデザイナーが必要なのだ。

デザインは「文化」に寄り添いすぎて、社会性を見失っていないか

公的なデザインに対して「あのようなデザインはあり得ない」という意見をよく耳にする。
しかし、言うは易く行うは難しだ。これは公的機関の人々のデザインセンスの問題ではなく、むしろ社会に価値を伝えるべきデザイナーの社会人としての資質の不足を露呈している。
残念ながら、多くのデザイナーは基本的な対話すら難しく、異なる考え方を持つ人々との建設的な議論ができない。
トップダウン型の仕事に慣れすぎた結果、複雑な社会的コミュニケーションを取ることができなくなっている。
医療分野は西洋医学を基盤とし、確固たるエビデンスの体系で成り立っている。
人命に関わる情報を扱うため、妥協のない正確さが求められるのだ。
極論を言えば、論理的に実証できないものは、存在しないも同然となる。
海外の一流大学や研究機関で学び、厳しい議論を経て意思決定を行うことに慣れた西洋医学の研究者と比べると、日本のデザイナーのコミュニケーション能力は未熟な印象を与える。
自分たちの作品に対して「いいでしょう、いいでしょう。分からないのですか?もういいです」といった態度を取りがちだ。
「良いものを作れば自然と広まる」という安易な考えに囚われ、うまくいかない場合は「理解のない、センスのないクライアント」として簡単に諦めてしまう。
日本のデザイナーには職人気質が強く、技術者としての側面が際立っている。
彼らの価値観には「デザインはこうあるべき」という強い思い込みがあり、世間知らずで非常にナイーブだ。そういった人材も必要だが、その比率が高すぎる。
また日本では、デザインとアートが混同され、感覚的・主観的なものとして扱われている。
クライアントも「デザインとはそういうもの」と考え、まるで子供をあやすように「自由にどうぞ」「好きにやってください」といった関係性になってしまう。
社会的機能という観点が欠落すれば、それはアートでもデザインでもなく、単なる自己満足に過ぎない。
ウェブやデジタル分野のデザイナーは比較的論理的だが、グラフィック分野は特に深刻な状況にある。

デザインは誰のためにあるのだろうか

デザインは、グラフィック、ウェブ、プロダクト、動画、人と人のコミュニケーションだけでなく、本質的には「体験価値を作る」ものとして、形として残らない領域にまで広がっている。
私はテキストライティングもデザインの一領域として捉え、言葉による説明を重視している。
多様な領域にまたがる中で、自分の仕事を明確に説明し、相手に納得してもらう技術が不可欠だ。
デザインの領域がこれほど拡大しているにもかかわらず、こうしたコミュニケーション能力を磨いていないことは、グラフィックデザインをますます時代遅れにしていくだろう。
デザインは誰のためにあるのだろうか。
誤解のないように述べておきたいが、私はグラフィックデザインが社会にとって必要不可欠であり、世の中をより良くできると確信している。
しかし、時代に即した考え方の革新ができず、従来の曖昧な「文化」の付属物という領域にしがみつくならば、古い蒸気機関車のように、「かつて世の中を動かしたもの」として博物館に展示され、「趣味の良い」好事家や文化人だけのものになってしまうだろう。
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