「間違えること」と「忘れること」―AI時代に考える人間らしさ
私たちの社会では、AIがますます多くの仕事や判断を担うようになっています。客観的な判断や効率的な処理は、今後さらにAIに任されていくでしょう。そうした状況の中で、「人間にしかできないこと」とは何なのかを問い直すことは我々の社会や人生の在り方を考える上で意味があるかもしれません。
「間違える」こと
従来、人間らしさは「創造性」や「知的判断能力」のような特質が優れたものとして語られがちでした。しかし、近年ではこうした領域にもAIが徐々に関わり始め、AIはそれなりに文脈を理解し、判断を「学習」していく方向へと進んでいます。この流れを見ると、私たちは改めて人間独自の特性に目を向ける必要があるかもしれません。
一つの視点として、「人間は本質的に『間違える』存在である」という考えがあります。
AIが起こすエラーは多くがデータや設計上の問題によるものであり、基本的には修正可能です。
一方、人間の「失敗」や「間違い」は、意図せずに起こり、しばしば不可逆的な形で私たちの人生に影響します。しかも、それらの失敗は必ずしも「学び」や「成長」という意味づけに還元されるわけではありません。痛みや後悔が残り、すぐに役立つ教訓へと転換できないことも少なくありません。
ただ、人間の失敗を単に「人間らしさ」として強調しすぎることは、人間性をあまりにも狭い面で語ってしまう可能性があります。
人間には、クリエイティブな面、他者に共感する力、社会的ルールを紡ぐ力など、多面的な特質があり、「間違い」や「失敗」だけを際立たせるのはバランスを欠くかもしれません。
それでも、効率と合理性で動くAIが増えるほど、人間の不完全さは改めて注目に値する面なのではないでしょうか。
「忘れる」こと
もう一つ、人間は「忘れる」ことができます。AIは基本的に情報を完璧に蓄積し、必要に応じて呼び出せますが、人間は時間とともに記憶が薄れ、痛みや後悔も軽くなっていきます。この「忘れる」能力は、失敗をいつまでも重く背負い続けることから解放し、心身を更新していく助けになります。
しかし忘却は痛みを和らげる反面、同じ過ちを繰り返す要因にもなり得ます。「忘れる」ことは人間にとって都合の良い機能であると同時に、学びを曖昧にしてしまう側面もあるといえます。
「人間である」こと
では、私たちはこうした人間的特質をどのように受け止めればいいのでしょうか。失敗や痛みを「成長の糧」や「意味のある経験」として意味づけようとすること自体が、ある種の合理化であり、AIと同じような「正しさ」を求める思考なのかもしれません。
人間の失敗や苦痛を、無理に「成長の糧」とする必要はありませんが、同時にそれらを無意味な苦しみとして切り捨てることも極端です。
失敗や忘却がもつアンバランスで不合理な側面こそが、人間がAIと異なる存在であることを示す「現実」として受け止めていくべきなのかもしれません。
人間は成功し喜びを感じる反面、失敗し痛みを抱え、それでも忘却や時間の力によって心の重みを調整しながら生きていきます。それは決して「ポジティブな学び」や「合理的な価値」にすべて還元できるものではありません。人間が人間であるゆえんは、こうした不安定な状態を、良くも悪くも抱えたまま進んでいく点にあります。
AI時代において私たちが再考するべき「人間らしさ」は、このような不完全さや曖昧さの中にある「非合理的な揺らぎ」にこそ潜んでいるのではないでしょうか。
AIと人間の関係を考えるとき、往々にして人間の優位性や特別な「優れた」価値を見出そうとしますが、実はそういった思考自体が、AIに近づこうとする態度なのかもしれません。