「知識」を超えて専門家が届けられる価値は何か
近年、生成 AI や臨床データベースの進歩により、論文検索や要約は数秒で済み、教科書レベルの情報はほぼ無料で手に入るようになりました。その一方で「責任の所在が曖昧」「患者–医師の関係が希薄化する」「AI にも誤りがある」といった懸念から、医療現場では導入に慎重な声も少なくありません。知識の平準化 が進む今、専門職が人間として提供できる価値はむしろ鮮明になります。
1. 安心と信頼を生む対人コミュニケーション
診察室で交わされる目線、声の抑揚、沈黙の間─こうした非言語のやり取りは「この人は自分を理解しようとしている」という直感的な安心感につながります。とりわけ病気の告知や治療選択の場面では、内容そのものより“誰から・どのように”伝えられたかが心理的負担を左右します。生成 AI は共感的な文章を生成できますが、患者のわずかな表情の変化や呼吸の浅さを感じ取り、その場で言葉を選び直す繊細さまでは持ち得ません。さらに、医療者が患者の背景を思い浮かべながら言葉を紡ぐ行為自体 が、患者にとっては「自分は独りではない」という感覚を強化します。信頼の土台が固まれば、自己管理への意欲や治療継続率が高まることも多く報告されています。
2. 個別化された判断と優先順位づけ
ガイドラインやエビデンスは“平均的な患者”を想定しています。しかし実際の臨床では、年齢、併存症、薬剤相互作用、家族構成、経済状況、宗教観などが複雑に絡み合います。医療者は複数の選択肢を提示し、患者の「生活」と重ね合わせ、意味づけし直す翻訳者として機能します。たとえば、同じ糖尿病治療薬でも「針を使うのは抵抗がある」「金融的に負担を抑えたい」「毎月通院が難しい」などの事情で最適解は変わります。加えて、複数の疾患が並存するケースでは治療同士の優先順位づけが必要になり、何を先に・どこまで目指すかを患者と練り上げるプロセス自体が治療の一部になります。AI の助言だけではなく、患者固有の価値観や制約を織り込み、選択肢を取捨選択する作業こそ人間の専門性と言えます。
3. シェアード・ディシジョン・メイキング(共同意思決定)
治療方針を決めるプロセスは「医師が選び、患者が従う」時代から、「医師と患者が並走して決める」時代へシフトしています。AI によって知識ギャップが縮まった結果、患者も情報にアクセスしやすくなり、両者の対話はより対等で創造的なものになりつつあります。医療者の役割は、①データの信頼性・妥当性をチェックし、②複数の選択肢のメリットとリスクを可視化し、③患者の価値観を引き出しながら最終決定をサポートすることです。その過程で「わからないことはわからない」と正直に伝え、AI の限界や自身のバイアスを開示する姿勢が、さらなる信頼を呼び込みます。共同意思決定が機能すると、患者は治療方針を“自分事”として受け止めやすくなり、結果として治療満足度やアドヒアランスが向上することが知られています。
知識が AI によって補完される時代、医療職の核心は 対人コミュニケーション・個別化・共同意思決定 に集約されます。これらはアルゴリズムが強みを発揮しにくい領域であり、テクノロジーの発展とともにむしろ重要度が高まる要素です。AI に慎重な姿勢は「未知のリスクへの用心」でもあり、人間としての価値を再確認する好機とも言えます。