Uncertainty Is Hope ー 不確実だからこそ希望を抱ける
モヤッとした「瞬間の希望」
2023年、パーキンソン症候群という診断名を告げられた時、自分の中に広がったのは、悲しみでも恐怖でもなく、ある種のモヤッとした感覚だった。
「まだ他の病気の可能性も捨てきれない」と医師は言う。パーキンソン病のような症状をきたすが、はっきりとは判明していない。この曖昧さ、この不確実性。それは不安の源でもあり、同時に、奇妙な安堵でもあった。
英語に "Uncertainty Is Hope" という表現がある。不確実性こそが希望を孕んでいる、という意味だ。確定していないことは、まだ可能性が開かれているということ。その言葉が、診断を受けた後の私の心に、静かに浮かんできた。
悲観的でもなく、楽観的でもなく
左手が震える。足の筋肉がこわばる。症状は日によって違い、薬の効き方も予測がつかない。「最悪の場合は4、5年で寝たきりになり、亡くなるでしょう。普通に行けば10年から15年ぐらい日常生活が送れるでしょう」と医師は言った。
4年から15年。「5年というのはそこまで悪い数字ではない」というのが第一印象だった。医師の方が、私の反応の普通さに怯んだかもしれない。
悲観的というほど悲観的でもなく、楽観的というほど楽観的でもない。今までそうしてきたように現在できることを緩やかに行って、未来のことは未来の私に判断してもらおう。そう思った。
答えのない現実に立ち続ける力
詩人のジョン・キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)」という言葉を残した。答えのない、説明のつかない状況の中にただ立ち続ける力。性急に結論を出そうとせず、曖昧さに耐える能力。
診断という、答えがあるようで曖昧な現実。パーキンソン症候群という、病名なのか症状の総称なのかも定かでない状態。この「モヤッと」の中に立ち続けることが、新たな視点をもたらしてくれる。
論理的に明確な答えがなくても、そこに含まれる可能性を感じること。それは諦めではなく、むしろ積極的な選択なのかもしれない。
小さくなったヨロコビの中で
脳内のドーパミンが減少すると、快感や幸福感を感じにくくなるという。頭の中の感情を「ヨロコビ」や「カナシミ」として擬人化したピクサーの映画を思い出す。私の中の「ヨロコビ」は、以前よりずっと小さくなってしまったのだろうか。
実感としてはそうではない。昨年も私は今までの人生で一番「喜び」、楽しかったと感じている。ヨロコビが小さくなっても、いや、小さくなったからこそ、その存在がより鮮明に感じられるのかもしれない。
未来のことは未来の私が判断すればいい
毎日飲む薬がある。飲まないと症状が強い。「薬がなければ本当の自分を維持できない」のではなく、「薬のおかげで本当の自分を忘れ、酔っ払っていられる」という方が適切なのかもしれない。
未来は未来の私が判断する。それが、不確実性の中に見出す希望の形なのかもしれない。
前向きに諦める、ということ
「前向きな諦観」を持つ。諦めることが前向きであるというちょっとした逆説。それは、確実性への執着を手放すことで、むしろ可能性に開かれるということだ。
バック・トゥ・ザ・フューチャーのエンディングの台詞のように、「未来はまだ決定されていない(It means your future hasn’t been written yet.No one’s has. Your future is whatever you make it.)」。だから自分に現在できることをしていきたい。
不確実な未来が続くからこそ、まだ見ぬ可能性、まだ成し得ていない人生が開かれている。答えのない、説明のつかない中にただ立ち続けること。その姿勢そのものが、私にとっての希望なのだと、今は思っている。
震える左手でタイピングしたこのテキストも、また一つの不確実な試みだ。不確実だからこそ、希望を抱ける瞬間がある。