専門家であり患者でもある私が感じる「周縁化」の構造
医療分野のデザインに携わりながら難病とともに生きていると、自分が二つの立場を同時に抱えていることを意識する場面があります。専門家としての私は求められる一方で、患者としての私は周縁へと置かれやすい。これは私個人の事情というより、医療領域とデザイン領域が持つ構造に深く関係しているのだと感じています。
「患者中心」の難しさ
プロジェクトでは「患者中心」「当事者の声を大切にする」という言葉が多く使われます。インクルーシブデザインやダイバーシティの理念とも響き合う言葉ですが、実際のプロセスは必ずしも理念通りには動きません。
中心に置かれているのは多くの場合でサービスの提供側や運営側であり、患者は“声を聞く対象”として枠の外側に並べられることがあります。
私自身も、専門家として参加するとその役割が前面に出る反面、患者としての視点は補足的な扱いに留まることがあります。専門知はプロジェクトを進めるために扱いやすい一方、当事者としての知は枠に収まりにくいため、位置づけが不安定になりやすいのだと思います。
インクルーシブやダイバーシティが抱える「対象化」の影
インクルーシブデザインやダイバーシティの考え方は、誰もが排除されずに関われる状態を目指しています。しかし、これらの概念を適用しようとすると、意図せず患者や障害のある人が“取り込むべき対象”として扱われることが起こりやすいと感じます。
理念としては包摂を目指しているはずなのに、参加する側とされる側という線引きがむしろそこにおいて強く残照される。
参加を“用意された場”の中で行う限り、そこにはどうしても上下や中心・周縁といった構造が入り込みやすくなります。
この構造は、患者としての私が背景化される状況を生みやすい土台になっているのだと思います。
インクルーシブデザインやダイバーシティという言葉はとても広く使われますが、その根にある考え方は意外と誤解されやすいものです。
インクルーシブデザインとは
もともとは「排除されがちな人々の視点からデザインを考える」という発想から生まれた概念です。
イギリスの工業デザイン分野などで発展し、障害の有無や年齢、文化的背景などに関係なく、多様な人が使える環境やサービスをつくることを目指しています。
特徴的なのは、“当事者の視点や経験をデザインのプロセスに組み込む”という点です。
ただし、ここには「包括する側/される側」という枠組みが生じやすく、良い理念であっても運用の仕方によっては対象化が起きるという議論もあります。
ダイバーシティとは
「多様性」を意味する概念で、性別、年齢、障害、国籍、宗教、性的指向、働き方など、さまざまな違いを持つ人々が社会や組織の中で尊重される状態を指します。
単に“多様な人が存在している”ということではなく、
「違いを価値として認める」「平等な参加の機会を確保する」という考え方が含まれています。
こちらも、制度や組織によっては“多様な人を取り込む”という方向へ力が向かいやすく、結果として当事者が枠の外側に置かれるという批判が既に存在します。
どちらの概念も掲げやすく、実装は難しい
インクルーシブデザインもダイバーシティも、理念は比較的わかりやすく、ポジティブな響きを持っています。
一方で、現場に落とし込む段階になると、誰が中心にいるのか、誰が発言力を持っているのか、といった構造的な問題に触れざるを得なくなります。
そのため、きれいな言葉として広く使われる一方、実践の中では“対象として扱われる側”が生まれてしまうこともあり、そこに緊張や矛盾が生じるという議論が続いています。
インクルーシブやダイバーシティを語る場で感じる違和感
インクルーシブデザインやダイバーシティがテーマの場に参加すると、理念とは裏腹に、壇上には“ノーマルとされる人たち”、さらに言えば“制度側の中心に位置する力がある人たち”だけが並んで議論を進めていることがあります。排除されがちな人々が主題であるはずの場で、本人たちが姿を見せないまま、包摂について語られていく。その光景に、私はしばしば不思議な気分になります。
当事者の経験や視点を重視するという理念が掲げられていても、語り手と語られる側が分かれたまま構造だけが温存されてしまうと、どうしても対象化の空気が生まれるように感じます。誰が壇上にいるのか、誰が語る側に立っているのかという“場の配置”そのものが、その場の価値観や力の向きを示してしまうのだと思います。
まさに「誰のためのデザインであり、イベントなのか?」と言った疑問が湧きます。
当事者性が“個人的なエピソード”として扱われやすい
患者としての知見は、日常の中の経験や身体感覚から育っていく豊かなものです。しかし、制度やプロジェクトの中では「個人のエピソード」として理解され、一般化しづらい情報として扱われることがあります。
そのため、患者としての話が構造的な議論や方向性の決定につながりにくい場面が生まれます。
私自身も、意図せぬ形で“観察される側”へ戻ってしまうような感覚を経験してきました。
専門家と当事者、二つの顔
自分にとっては専門性と当事者性はどちらも欠かせない経験なのですが、周囲からはしばしばどちらか一方を選んで話すよう求められているように感じることがあります。
- 専門家としての発言 → プロジェクトの核として扱われる
- 患者としての発言 → 参考意見や補足として扱われる
この線引きは、私の中にある連続した経験の流れとは異なり、二つの立場の間で揺れ続ける感覚につながります。
患者が創造的に関わることで生まれる変化
こうした経験を重ねる中で、私は「患者が創造的に関わること」の重要性を強く感じるようになりました。
「参加する」のではなく、「主体となって創る」存在として関わることで、プロジェクトの土台そのものが変わる可能性があるからです。
患者が創造的に参加すると、情報提供にとどまらず、生活の文脈や身体感覚に根ざした視点がプロジェクトの初期段階から組み込まれます。それにより、問いの立ち方や方向性そのものが変化することがあります。
私が「患者自身が創造的に参加するのが一番だ」と思うのは、専門家と当事者という二つの立場の間で揺らされてきた経験から生まれた、ごく自然な実感に近いものです。