医療デザイン≒スーパーノーマル
なぜいま「スーパーノーマル」を医療で考えるのか
深澤直人とジャスパー・モリソンが打ち出した「スーパーノーマル」という概念は、プロダクトデザインの文脈ではわりと知られている一方で、一般的な“流行ワード”にはならなかった。
ただ、改めて考えてみると、
僕にはどうしてもこう思えてならない。
スーパーノーマルって、医療デザインのことじゃん。
この仮説で世界を眺めると、病院の空間や医療情報がまったく違って見えてくる。
この記事は、その整理メモだ。
スーパーノーマルとは何か(超ざっくり)
スーパーノーマルは、一言でいうと、
「一見なんでもない“普通のもの”の中にある質の高さを、ちゃんとデザインとして扱おう」という姿勢
だと理解している。
特徴をいくつか挙げると:
- 目立たない
- 生活の背景にすっと溶け込む
- 長い時間の中で“こういうのがちょうどいい”と収れんしてきた形を尊重する
- 説明しなくても、触ればだいたい分かる
つまり、「新しさ」や「個性」より、“当たり前にそこにあること”そのものが価値として扱われる。
なぜ「流行ワード」にはならなかったのか
スーパーノーマルはデザインの専門領域では頻繁に言及されるが、ライフスタイル雑誌のコピーに躍るようなキーワードにはならなかった。
その理由を雑に言うと、こんな感じだ。
- 派手さやアイコン性を、むしろ意図的に捨てている
- 「すでにある普通のもの」を肯定する思想なので、メディア的に物語化しにくい
- 実践しているブランドやデザイナーは多いが、それをわざわざ「スーパーノーマル」と名乗らない
結果として、考え方だけはじわっと広まり、ラベルとしては広まっていない。
僕が「医療デザイン≒スーパーノーマル」と感じる理由
医療の現場に目を向けると、スーパーノーマルの条件と強く重なるポイントがいくつも見えてくる。
1. 違和感を減らす道具であること
医療に関わる人たちに求められるのは、「道具そのものを意識させない道具」だ。
- 患者や家族が余計に不安にならない
- 看護師や医師が“考えなくても手が動く”レベルで扱える
- 空間や機器が、必要以上に“医療的”な威圧感を出さない
これは、スーパーノーマルが目指す「背景に引いていくプロダクト」とほぼ同じ方向を向いている。
2. 過剰な造形より、蓄積された形が信頼される
医療器具やレイアウトには、長年の試行錯誤の結果として定番化した形が多い。
- 何十年も形が変わらない器具
- どの病院でも似たような動線や配置
- “これが一番ミスが少なかった”という理由で残っているUI
ここでは、“普通に見えること”自体が安全と安心のサインになる。
これもスーパーノーマル的な「普通の質」とかなり近い。
3. 医療空間を生活側に寄せる流れ
近年の病院建築やホスピタルアートの領域では、
- ホテルや住宅のようなインテリア
- 木や布などの生活に近い素材
- できるだけ「病院らしさ」を薄めるデザイン
といった方向に振る事例が増えている。
ここには、非日常としての“病院”を、もう一度“日常の延長”に引き戻そうとする動きがあり、スーパーノーマルの志向と自然に重なる。
それでも同一ではない──明確に違うところ
とはいえ、医療デザインとスーパーノーマルを完全に=(イコール)で結ぶのは乱暴だ。
いくつか、はっきり線が引かれるポイントがある。
1. 出発点の問いが違う
- スーパーノーマルの問い:
「日用品の“普通さ”の中にある美しさや心地よさは何か?」
- 医療デザインの問い:
「どうすれば生命・健康・業務を安全に支えられるか?」
どちらも人の生活を扱っているが、前者は生活の質、後者はまず安全とケアが軸にある。
2. 「目立たせない」と「目立たせる」の両立が必要
スーパーノーマルは基本的に、全体を“静かな背景”に溶かしていく方向に向かう。
一方、医療デザインには、
- 緊急停止ボタン
- 警告灯
- 危険薬品のラベリング
- 誤操作を防ぐための強い色分け
など、「ここだけは絶対に目立っていなければならない要素」がある。
医療の現場では、
静かであってほしいものと、強く主張していなければならないものが、同じ空間に共存している。
この構造が、スーパーノーマルとの大きな違いになる。
3. 関係者と責任のレイヤー
日用品のデザインに比べると、医療は関わる主体が圧倒的に多い。
- 患者・家族
- 医療者(医師・看護師・技師など)
- 病院運営
- 機器メーカー
- 行政・規制当局・認証機関
評価も、
- 臨床アウトカム
- インシデント・アクシデントの発生率
- 法規制との整合性
といったレイヤーまで一体化している。
ここまで責任の構造が重層的になると、「静かで美しいから採用」とはいかない。
4. スーパーノーマルでいける領域/いけない領域
医療デザインの中には、おおざっぱに言えば二つのレイヤーがある。
- 病室のインテリア、受付、廊下、待合室など
→ スーパーノーマル的な“日常への接続”を強くしてよい領域
- 手術室のインターフェース、ICUモニタ、救急のトリアージなど
→ あえて“非・日常”として立ち上げるべき領域
つまり、
医療デザインの中に、「スーパーノーマルであっていい部分」と「意図的にスーパーノーマルから外すべき部分」が同居している。
この境界線こそが、「医療デザイン≒スーパーノーマル」と言いつつ、完全な一致にはならない核心である。
「医療デザイン≒スーパーノーマル」というまとめ方
雑にまとめると、こんな図式になる。
- 医療の環境・体験側:
スーパーノーマルとかなり重なる
(むしろ、必然的にスーパーノーマルを目指さざるをえない)
- 医療のコアな生命・安全側:
スーパーノーマルとは部分的に緊張関係にある(静けさよりも、警告性・即時性が優先される)
だから、もう少し正確に書くなら、
「医療デザインの中には、スーパーノーマルと強く重なるレイヤーがある」
と言うほうが近いのかもしれない。
とはいえ、自分の感覚としてはやはり、
医療デザイン≒スーパーノーマル
という書き方のほうが、考え始めるための“フック”としてはしっくり来ている。
まだうまく名付けられない、という状態もそのまま残しておく
この関係性に、きれいな名前を付けようとしてみたが、「これだ」と言い切れる言葉にはなかなか辿り着かない。
- 平常医療デザイン
- 静穏医療
- Ordinary Care Design
- Clinical Normality
いくつか候補を並べてみても、どれもどこか一部だけを切り取っている感じが残る。
おそらく、医療という領域そのものが、
- 日常と非日常
- 静けさと緊急性
- 生活と制度
といった、相反するものを同時に抱え込んでいるからだろう。
現時点では、あえてうまく整理しきらずに、
「医療デザイン≒スーパーノーマル」という違和感を含んだままの等号
を、思考の仮タイトルとして置いておく。
このラフな等号を起点に、
- 病院という空間をどう“普通”にしていくか
- 医療機器をどこまで生活の道具に近づけられるか
- 逆に、どこから先は“普通ではないまま残すべきか”
といった問いを組み立てていくほうが、今の自分にはしっくりきている。
そして、自分の実感としての「医療デザイン≒スーパーノーマル」
自分は医療情報を扱う仕事をしていて、必然的に、普段その領域に触れない人たちと話す場面が多い。
そこで生まれる“もどかしさ”が、常にある。
- こちらが当たり前だと思っている前提が、相手にはまったく当たり前ではない
- 逆に、相手の感覚のほうが一般的で、自分のほうが特殊な環境で生きている
- 「医療の文脈を説明する」という行為自体が、すでに距離をつくってしまう
そういうズレの中で、自分がどこに立っているのかを言葉にしようとすると、妙に難しい。
ただ、この“言葉にならなさ”そのものが、医療領域をデザインするという行為の性質に直結している気がしている。
医療は、他の領域のデザインとは前提がまったく違う。
日常のようでいて非日常で、誰もが関わるようでいて専門性の塊で、誰でもわかるようでいて、わかる前提が常に揺らいでいる。
こうした曖昧で、複層的で、説明しようとすると手からこぼれていくような性質は、
スーパーノーマルが扱っていた“普通の中に潜む質”とは全く異質のものだ。
つまり、
うまく言語化できないもどかしさそのものが、医療デザイン≒スーパーノーマルという領域に自分が立っている証拠なのではないかと最近思う。
派手でもなく、声高でもなく、しかし必要なものを必要な形で届ける。
そのために、伝わる/伝わらないの境界に立ち続ける。
この立ち位置の曖昧さが、まさに「医療デザイン≒スーパーノーマル」という仮説を、自分の実感として裏打ちしている。