『地域医療の経済学』を読んで

『地域医療の経済学―医療の質・費用・ヘルスリテラシーの効果』(井伊雅子・著/慶應義塾大学出版会、2024年4月刊)は日本や諸外国における医療の質と、それを支える医療提供体制を比較・分析したものです。
それに基づき、「患者中心の医療(Patient-Centered Care)」について解説します。
この言葉は単なる精神論(患者に優しくする)ではなく、医療の質を評価・向上させるための科学的かつ構造的な概念として定義されています。

1. OECDによる定義:医療の質の3本柱の一つ

OECD(経済協力開発機構)は、「医療の質」を以下の3つの柱で定義しており、「患者中心性」はその重要な一つです。
  1. 有効性: 治療によって患者の健康状態が改善すること。
  1. 安全性: 医療事故や過誤を防ぐこと。
  1. 患者中心性: 「患者の好み、ニーズ、価値観を尊重し、それらに応じたケアを提供すること」。また、すべての臨床的な意思決定において患者の価値観がガイドとなることを保証すること。

2. 具体的な構成要素(評価軸)

資料では、英国の医療監査機関が用いる5つの評価軸を紹介し、これらが患者中心の医療を具体化するものとしています。
  • 安全である: 危害から守られている。
  • 効果的である: 良い結果(アウトカム)をもたらし、生活の質(QOL)を向上させる。
  • おもいやり: スタッフが患者に対して共感や敬意を持って接している。
  • ニーズに合う: 患者のニーズに合わせて適切なタイミングでケアが行われる。
  • 指導力: 組織として学習し、公正で透明な文化がある。

3. 「病気中心」から「人中心」への転換

プライマリ・ケア(総合診療)の文脈では、患者中心の医療は「特定の病気(疾患)の管理」ではなく「その人全体(個人)の健康の管理」に焦点を当てることと定義されています。
  • 疾患志向のケア: 病気の症状を治すこと、生存期間を延ばすことなどが目標。
  • 人中心のケア: その人が抱える複数の健康問題を包括的に捉え、長期間にわたる人間関係(継続性)の中で、その人の人生の質を支えること。

4. 共有意思決定(Shared Decision Making: SDM)

患者中心の医療を実現するための具体的な手法として、「共有意思決定(SDM)」が挙げられています。これは、医師が一方的に治療方針を決める(パターナリズム)のではなく、以下のようなプロセスを経ることです。
  1. 医師が、検査や治療のメリット(利益)だけでなくデメリット(不利益・副作用・過剰診断のリスクなど)も含めた正確な情報を患者に提供する。
  1. 患者と医師が情報を共有し、対話する。
  1. 最終的に患者自身の価値観に基づいて、治療や検査を受けるかどうかを決定する。

日本における課題

資料では、日本の医療は「フリーアクセス」や「高度医療機器(CT/MRI)」へのアクセスは良いものの、この「患者中心性」の観点では課題があると指摘されています。
  • コミュニケーション不足: 医師が患者の話を十分に聞く時間がない(3分診療など)、あるいは説明が不十分であると感じている患者が多いこと。
  • エビデンスの欠如: どの医療機関が患者中心のケアを実践しているかを知るためのデータ(患者経験調査など)が公開されておらず、患者が質に基づいて病院を選べない現状があること。
つまり「患者中心の医療」とは、患者が客観的な情報を得た上で、医師と対等なパートナーとして自分の健康管理に関わり、その人の人生や価値観に沿ったケアが提供されるシステムを指します。

「3分診療」の背景

日本の医療は「フリーアクセス」(患者が自由に医療機関を選べる)と「出来高払い」(診療行為の量に応じて報酬が支払われる)を特徴としています。これにより、以下のような状況が生まれています。
  • 過剰な受診頻度: 日本人の年間受診回数はOECD加盟国の中でも極めて多く、外来患者数が膨大になっています。
  • ゲートキーパーの不在: 軽症でも大病院や専門医を直接受診できるため、特定の医師や病院に患者が集中し、一人あたりの診察時間を短くせざるを得ません。
これに対する対策として、資料では主に以下の4つのアプローチが提示されています。

1. プライマリ・ケア(家庭医)制度の確立

最も根本的な対策として挙げられているのが、住民の健康を包括的に管理する「家庭医(プライマリ・ケア医)」の普及と、その医師を通してから専門医を受診する制度の導入です。
  • 登録制の導入: 英国や北欧のように、住民が自分の「かかりつけ医」を登録し、まずそこで診察を受ける仕組みを作ることで、患者の分散を防ぎ、継続的なケアが可能になります。
  • 専門医との役割分担: 家庭医が日常的な病気や健康管理(全体の8〜9割)を担い、必要な場合のみ高度な専門医へ紹介することで、専門医の外来負担を減らし、本来の高度医療に専念できる時間を確保します。

2. 多職種連携

医師に集中している業務を、看護師や薬剤師などに移譲または共同実施することで、医師の負担を減らし、診療の質を確保する対策です。
  • 看護師・薬剤師の活用: 日本の人口あたりの看護師・薬剤師数はOECD諸国でも多い水準にありますが、その業務範囲は医師の指示待ちなど限定的です。諸外国のように、一定の条件下で薬の処方や慢性疾患の管理、健康相談などを彼らに任せることで、医師は診断や治療方針の決定に時間を割けるようになります。
  • リフィル処方箋など: 症状が安定している患者に対しては、医師の診察なしで薬剤師が薬を調剤する仕組み(リフィル処方箋)などを活用し、不必要な受診を減らすことも有効です。

3. 診療報酬制度の見直し

「患者を多く診るほど儲かる」という出来高払いのインセンティブを見直すことも重要です。
  • 量より質: 英国のように、診療の「量」ではなく「質(成果)」に対して報酬を支払う仕組みを導入することで、短時間で数をこなす診療から、患者の健康管理(血圧コントロールや禁煙指導など)に時間をかける診療へと誘導できます。
  • 登録料・人頭払い: 患者一人あたり定額の報酬(人頭払い)や管理料を支払うことで、頻繁な受診を促す動機を減らし、予防や電話相談など柔軟な対応を可能にします。

4. 市民のヘルスリテラシー向上

患者側が「いつ医者にかかるべきか」を正しく判断できるようになることも、「3分診療」解消の一助となります。
  • 適切な受診行動: 欧州のように、「風邪や軽微な症状なら自宅療養する」「まずは電話で相談する」といった文化やガイドラインが定着すれば、不要な受診が減り、本当に医療が必要な人にリソースを回せます。そのためには、学校教育や市民への啓発を通じてヘルスリテラシー(健康情報を活用する力)を高める必要があります。

まとめ

「3分診療」を解決するためには、単に医師を増やすだけでは不十分であり、「フリーアクセスの見直し(かかりつけ医機能の強化)」「他職種への業務移管」「報酬制度の改革」「患者教育」を組み合わせた包括的なシステム改革が必要であると論じられています。