善意すら利用される場所で、専門家は何を問われるのか

善意すら利用される場所で、専門家は何を問われるのか
メタのやっていることが悪質である、という認識は比較的わかりやすい。
詐欺広告、有害なAIチャットボット、未成年への危険な接触、問題を把握しながら収益化を続ける構造。そこには企業としての明確な責任がある。
しかし、より難しい問題はその先にある。
そのようなプラットフォーム上で、有名な科学者や医師、専門家が「有益」とされる情報を発信している場合、その人たちに責任はあるのか。
これは簡単には答えられない。
医師や科学者が正確な情報を出すこと自体は、社会的に重要である。偽医療、陰謀論、誤情報、過激な商材があふれる場所で、専門家の発信が被害を減らすことは実際にある。災害時、感染症、健康不安、科学リテラシーの不足といった場面では、専門家の声が届くことに意味はある。
だが、その善意すらプラットフォームに利用される。
専門家の投稿は、単に個別の情報として存在するわけではない。それはプラットフォーム全体の信頼を補強する材料になる。
「この場所には有益な知識がある」
「医師や研究者も使っている」
「社会的に価値のある情報流通の場でもある」
そうした印象は、同じ場所に流れる詐欺広告、有害な推薦システム、偽情報、依存を生む設計を覆い隠す。専門家個人への信用が、いつの間にかプラットフォームそのものの信用へと移されてしまう。
ここに問題の核心がある。
専門家本人は、正しい情報を発信しているつもりかもしれない。
しかし、その発信は滞在時間を増やし、広告表示を増やし、データ収集を支え、プラットフォームの公益性を演出する素材にもなる。
つまり、善意の発信が、構造的な害の免罪符として使われる。
専門家の不在は、空白を生む
もちろん、だからといって専門家を一律に非難することはできない。
彼らが退場すれば、残るのはより悪質な情報かもしれない。専門家の不在は空白を生み、その空白はたいてい善良なものでは埋まらない。
だからこそ、この問題は難しい。
問われるべきなのは、単に「使っているかどうか」ではない。
自分の信用が何に使われているのかを理解しているかどうかだ。
「自分は正しい情報を出しているだけだから関係ない」
「悪いのはプラットフォームであって、自分の活動は純粋に公益的だ」
「フォロワーが増えるなら、場の構造は考えなくていい」
「企業案件や露出の利益は取るが、制度的な批判には関わらない」
このような態度は、もはや無邪気では済まない。
影響力を持つ人間は、自分の発信内容だけでなく、自分の存在が何を正当化してしまうのかについても責任を負う。特に医師、科学者、研究者のように、社会的信頼を職能として背負っている人間はなおさらだ。
自分の権威が、悪質なプラットフォームの信頼洗浄に使われている。
その可能性に無自覚なまま影響力だけを行使するなら、その人は少なくとも「公共的な専門家」としての資格を疑われるべきだ。
プラットフォームに残ること自体が、常に悪だとは言えない。
しかし、残るならば、自分の信用がどのように回収され、どのように利用され、何を覆い隠しているのかを理解していなければならない。
理解していないなら、退場すべきである。
理解していながら、利益だけを得て沈黙するなら、さらに重い。
この問題の中心は、善意か悪意かではない。正しい情報か間違った情報かだけでもない。
問題は、正しい情報すら、悪い構造の燃料になるということだ。
そして、そのことを自覚できない専門家に、社会的な信頼を預け続ける理由はないだろう。
「リテラシーのある側」という自己認識
彼らは、自分たちがプラットフォームに利用されているとは思っていない。
むしろ、自分たちはリテラシーのある側であり、誤情報にだまされる大衆とは違うと考えているかもしれない。
だからこそ危うい。
詐欺広告を信じる人、陰謀論に流される人、AIチャットボットに依存する人、アルゴリズムに煽られる人。そうした人々を見て、彼らは「問題は利用者側のリテラシー不足だ」と考える。
だが、その瞬間に、自分自身が別の形で利用されていることを見落とす。
専門家や有識者は、誤情報にだまされているわけではない。偽広告を信じているわけでもない。陰謀論に取り込まれているわけでもない。
しかし、自分の信用がプラットフォームの信用に変換されていることには気づいていない。
自分の発信が、滞在時間、広告収益、データ収集、社会的正当化に回収されていることには気づいていない。
自分の存在が、「この場所には価値がある」という証拠として使われていることには気づいていない。
つまり彼らは、低リテラシーだと彼らが考えている利用者とは違う場所で、あるいはそれ以上に悪質に利用されている。
ここで問題になるのは、知識の有無ではない。
むしろ、知識があるからこそ、自分は構造の外側にいると思い込んでしまうことだ。
「自分は正しい情報を出している」
「自分は誤情報に対抗している」
「自分はユーザーを啓発している」
「自分はプラットフォームを使いこなしている」
その自己認識が、もっとも都合よくプラットフォームに回収される。
メタのような企業にとって、無知な利用者だけが資源なのではない。
知識人も、医師も、科学者も、ジャーナリストも、教育者も、すべて資源になりうる。
しかも彼らは、自分たちが「利用される側」ではなく「使う側」だと信じているため、抵抗が起きにくい。
そこに、無邪気さの罪がある。
自分はリテラシーのある側だと信じている人間ほど、自分の信用がどのように利用されているかを問いにくい。
そして、その問いを持たないまま公共性を語るなら、その公共性はプラットフォームの利益構造に従属してしまう。
この問題は、「専門家もだまされている」という単純な話ではない。
もっと嫌な話だ。
彼らはだまされているのではない。
自分はだまされていないと信じていることによって、最も使いやすい存在になっている。
信頼されるインフルエンサーは、プラットフォームの資産になる
影響力があり、有力で、信頼のおけるインフルエンサーは、プラットフォームにとって非常に有益な存在だろう。
プラットフォームにとって、もっとも価値があるのは、単にフォロワー数の多いインフルエンサーではない。
影響力があり、社会的に信頼されていて、しかも本人が自分を「良い情報を届けている側」だと信じているインフルエンサーだ。
そういう人は、広告塔よりも強い働きをする。
露骨な宣伝であれば、見る側も警戒する。企業案件であれば、「これは売り込みだ」とわかる。
しかし、医師、科学者、教育者、ジャーナリスト、文化人のような人たちが日常的に発信していると、その場所そのものが信頼できる空間に見えてしまう。
彼らはプラットフォームにとって、信頼のインフラになる。
その人たちがいることで、ユーザーは戻ってくる。その人たちの投稿を見るために滞在する。その滞在時間のあいだに、別の広告が表示される。その行動データが蓄積される。
その空間で詐欺広告や有害なコンテンツが流れていても、「でも有益な情報もある場所だ」という印象が残る。
つまり、信頼できるインフルエンサーは、プラットフォームの悪質さを直接消すわけではない。
しかし、悪質さを見えにくくする。
もっと言えば、彼らの信用は、プラットフォームにとって一種の緩衝材になる。
批判が起きたとき、企業はこう言える。
「ここには専門家もいる」
「有益な情報も流通している」
「社会的価値のあるコミュニティも存在している」
「利用者にとって重要な情報基盤でもある」
その主張を可能にしているのは、まさに信頼されている発信者たちだ。
不誠実な発信者よりも、誠実な発信者は金になる
質の低いインフルエンサーよりも、むしろ質の高いインフルエンサーのほうが、プラットフォームにとっては価値がある。
不誠実な発信者よりも、誠実な発信者のほうが、より深く利用される。
なぜなら、誠実さは売れるからだ。
信頼は滞在時間に変換される。
専門性は広告収益に変換される。
公共性は企業の正当性に変換される。
そして本人たちは、自分がその変換装置の一部になっているとは思っていない。
むしろ、自分は誤情報に対抗している、自分は社会に役立っている、自分はプラットフォームをうまく使っている、と思っている。
そこに最大の問題がある。
プラットフォームにとって都合がいいのは、悪意ある協力者だけではない。
自分は協力していないと信じている、有能で信頼される協力者だ。
彼らは企業の代弁者ではない。
だからこそ強い。
彼らは広告ではない。
だからこそ効く。
彼らは宣伝しているつもりがない。
だからこそ、プラットフォームの正当化に深く組み込まれる。
有力で信頼のおけるインフルエンサーは、プラットフォームにとって単なる利用者ではない。
彼らは、ユーザーを引き留め、信用を供給し、批判を和らげ、企業の社会的価値を演出する存在だ。
そしてそのことに無自覚であるほど、プラットフォームにとっては使いやすい。
専門家であっても、インターネットの専門家ではない
医師は医学の専門家であり、科学者は研究領域の専門家だ。
しかしそれは、インターネット上で自分の発信がどう流通し、どう収益化され、どう政治的・商業的に回収されるかを理解している、という意味ではない。
ここで起きているのは、専門性の取り違えだ。
専門家本人は、自分には高いリテラシーがあると思っている。実際、医学や科学や統計や論文読解については高いリテラシーがある。
しかし、プラットフォームの設計、広告モデル、アルゴリズム、インプレッション経済、信用の移転、炎上の増幅、データ収集、レコメンドによる文脈破壊については、必ずしも理解していない。
つまり、専門家であっても、インターネットの専門家ではない。
これは珍しいことではなく、かなり当然のことだ。
ただ問題は、彼らがその限界を自覚していない場合があるということだ。
自分は医学的に正しいことを言っている。
自分は科学的に妥当なことを言っている。
自分は誤情報を訂正している。
だから自分の活動は公共的であり、問題の外側にある。
そう考えてしまうと、自分の信用がどのように場の信用へ転用されているかを見落とす。
医学的に正しい投稿であっても、それが置かれる場所は中立ではない。
科学的に正しい発信であっても、それが流通する仕組みは中立ではない。
誤情報を訂正する行為であっても、その過程で滞在時間、広告表示、データ収集、プラットフォームの正当化に寄与することがある。
だから、ここで問われるべきなのは「専門家かどうか」ではない。
自分の専門性がどこまでで、どこから先は別の専門性なのかを理解しているかだ。
この自覚がない専門家は危うい。
なぜなら、自分を「リテラシーのある側」と見なすことで、むしろ一番基本的なリテラシーを欠いてしまうからだ。
専門知は強い。
しかし、専門知は万能ではない。
そしてプラットフォームは、その万能感を非常にうまく利用する。
正しい情報が、どのような構造の中で流通しているか
この問題は、専門家が善人か悪人かという話ではない。
正しい情報を発信しているかどうかだけの話でもない。
問題は、正しい情報が、どのような構造の中で流通しているかである。
専門家の善意、誠実さ、知識、社会的信用は、それ自体としては価値がある。だが、それらは同時に、プラットフォームにとってきわめて有益な資源にもなる。
信頼される人がいることで、ユーザーは戻ってくる。
有益な情報があることで、滞在時間は伸びる。
公共性があるように見えることで、企業への批判は和らぐ。
そして、その裏側で詐欺広告、有害な推薦、データ収集、依存を生む設計が動き続ける。
専門家は、自分が何を語っているかだけでなく、自分の信用が何に使われているのかを問われる。
その問いを持たないまま、「自分は正しい側にいる」と信じて影響力を行使するなら、その無邪気さはもはや免責にはならない。
むしろ、その無邪気さこそが、プラットフォームにとって最も利用しやすい資源になる。
悪い構造は、悪意だけで動いているわけではない。
善意も、誠実さも、専門性も、公共性も、そこでは燃料になる。
だからこそ、信頼される専門家ほど問われなければならない。
専門家の信用は、何を支えているのか。

