AIと患者の立場

同じことをやるのであれば、今後もAIは積極的に使っていきたいと思っている。 もちろん、クライアントから「AIっぽい」と見られるリスクはある。
その指摘に質的な妥当性があれば作り直せばいいし、AIを使わず人間だけで進める場合には、予算や工数が大きく変わることも正直に伝える必要がある。
私自身の体力面を考えても、AIの性能面を考えても、もう以前と同じやり方だけで続ける段階ではないと感じている。普通に街を歩いている人を見て、羨ましいと思うこともある。歩けるのが羨ましいなと。自分には、使える時間や体力に限りがある。
一方で、「AIっぽい」という言葉には、単なる品質評価以上のものが含まれている。 そこには、手を抜かれたのではないかという疑いもあるし、自分たちが大切にしてきた技能や感性が、機械によって置き換えられていくことへの戸惑いもある。
だから「AIっぽい」という言葉は、必ずしも「出来が悪い」という意味だけではない。 時には、「これは人間の仕事として認めてよいのか」という境界線を引く言葉にもなっているように思う。
AIに対して不安を感じながらも、どこかでまだ「低く」見ておきたい。 影響力を感じているからこそ、逆に距離を取りたくなる。 その感情のねじれが、「AIっぽい」という言葉に表れているのかもしれない。
これは、病気や障害のある人が、本人の能力や意思よりも先に「守られるべき弱者」として見られてしまう、そしてそこを踏み越えると苛立ちを持って迎えられることがある構造とも、どこか重なる。
本当はできることもあるし、選びたいこともあるのに、周囲が先に枠を決めてしまう。その感覚に近いものを、AIへの反応の中にも感じる。「あまりでしゃばるな」と。
すべてをAIで済ませたいわけではない。 現状では、特にグラフィック周りなど、人間が判断した方がよい領域もある。そこは棲み分けながら進めている。
ただ、少なくとも私は、AIを使うこと自体を後ろめたいものとは考えていない。 限られた時間と体力の中で、できるだけよいものをつくるための手段として、現実的に使っていきたい。