デザインの僻地
病を患ってから、街を普通に歩いている人が羨ましく感じることがある。
ただ歩いているだけの人。
駅へ向かう人。
信号を渡る人。
店に入る人。
何かを買って、また歩いていく人。
それらは、ごく普通の風景のはずなのに、自分の身体が以前とは違う状態になると、その「普通」が急に遠く見える。
街は、普通に歩ける人を前提につくられている。
公共交通も、店も、案内表示も、書類も、ウェブサイトも、多くの場合、読める人、動ける人、理解できる人、疲れていない人を前提にしている。
身体の側からそれを知ると、見え方が変わる。
私は健康だった頃から、グラフィックデザイナーでありながら、ずっと考えていた。
本というものは、文化的な意匠を凝らした贅沢品なのではないか。
装丁、紙、印刷、文字組、余白、手触り。
そこにはたしかに豊かな文化がある。
美しい本を作る仕事には、知識も技術も必要だし、私自身もその価値を否定したいわけではない。
ただ、その美しさを享受できる人は誰なのか、という問いがずっとあった。
読む体力がある人。
視力がある人。
集中できる時間がある人。
本を買える経済力がある人。
その本の文脈を楽しめる文化資本を持っている人。
そういう前提の上に、本のデザインの多くは成り立っているのではないか。
もちろん、デザインには別の系譜もある。
医療関連のデザイン。
公共サイン。
文書のフォーマット。
字幕。
点字。
可読性のための書体。
誤読を防ぐためのレイアウト。
不安な人が迷わないための案内。
疲れている人でも理解できる情報設計。
それらは、人の生活にかなり近い場所にある。
むしろ、生活の中で困っている人にとっては、きわめて切実なデザインである。
けれど、医療とデザインという分野に携わってきた実感として、そこはデザインの僻地のように扱われてきた。
医療関連のデザイン、公共サイン、文書のフォーマット、字幕、点字、可読性のための書体。
こうした領域は、業界の中で「クリエイティブ」とは見なされにくい。
雑誌に華やかに取り上げられることも少ない。
賞の場で語られることも少ない。
語られたとしても、「真面目」「社会的」「地味」といった言葉で片づけられることが多い。
ブランディングや広告、キャンペーン、パッケージ、瀟洒なアートブックといった領域に比べて、業界内部での序列は明らかに低いところに置かれている。
報酬も高くない。
敬意も十分ではない。
語彙も少ない。
医療関係でデザインをしていると言うと、怪訝そうな顔をされたことは枚挙にいとまがない。
なぜなのだろうと思う。
人が迷わないこと。
人が誤解しないこと。
人が申請書を書けること。
人が薬の説明を読めること。
人が病院で次にどこへ行けばいいかわかること。
聞こえない人が字幕で内容にたどり着けること。
見えにくい人が文字を読めること。
それらは、生活にとってかなり重要なことのはずだ。
それなのに、デザイン業界の価値体系の中では、どうしても下位に置かれやすい。
そこには、「健常で、消費力があり、文化資本を持つ人」に向けて作られたものほど、クリエイティブとして評価されやすい構造があるのではないかと思う。
欲しくなるもの。
買いたくなるもの。
所有したくなるもの。
語りたくなるもの。
飾りたくなるもの。
センスがあると示せるもの。
そうしたものは評価されやすい。
一方で、困っている人が困らないためのデザイン、取りこぼされやすい人が生活の中にとどまるためのデザインは、背景に押し込まれやすい。
誰が取りこぼされているのかを見ようとする仕事が、その業界からまた取りこぼされている。
このねじれは、ずっと気になっていたが、近年は解消されつつある。日本ではまだまだだが公共をよりよくすることは評価されるし、AIの本丸は医療とヘルスケアと言われる。
その代わりにデザインや広告は、ITに時代の先端と「創造性」を譲り渡した。今でもビールの売り方を必死に考えている業界では仕方ないと思う。
別にデザイナーのせいではない。シリコンバレーのような産官学にまたがるようなハイリスクな資本のエコシステムは構造的に日本には生まれないのだろう。
ただ、視野が狭かっただけだ。デザイナーは今も昔も、目の前のマウスをクリックして色校を確認することしかやっていない。
インクルーシブという言葉の違和感
ついでにいえば、私は「インクルーシブ」という言葉に違和感がある。
もちろん、その言葉が必要とされている文脈があることはわかる。
善意で使われていることも多い。
誰も排除しない、さまざまな人を含めて考える、という意味で使われていることも理解している。
それでも、どうしても引っかかる。
「インクルーシブ」という言葉には、しばしば、すでに中心にいる側が、周縁にいる人を受け入れてあげる、という構図が残っているように感じる。
中心は動かない。
基準も変わらない。
そこに「配慮枠」や「例外処理」として、誰かを足す。
そういう感じがある。
「インクルーシブデザイン」も同じで、語られ方によっては、障害や病や老いを持つ人が、健常者中心のデザインをよくするための“気づきの素材”にされることがある。
当事者が中心に据えられているように見える。
でも実際には、既存の市場やブランドや制度を、より感じよく見せるために回収されてしまうことがある。
その感じには、少し暴力的なものがある。
「排除しない」という言い方も、本当はかなり上からだと思う。
排除していた側が、排除しないことを美徳として語る。
その時点で、誰が門の内側にいて、誰が外側に置かれていたのかが見えてしまう。
以前、インクルージョンをテーマにしたイベントのLPデザインを担当したことがある。
そのとき、登壇者のほとんどが文化資本も豊かな「健常な」人たちだった。
それが不思議だった。
もちろん、その人たち個人を責めたいわけではない。
ただ、その場の構造そのものが何かを語っていた。
誰が語る側にいるのか。
誰が聞く側に置かれるのか。
誰の経験が素材になり、誰の言葉が理念になるのか。
「多様性」や「包摂」が語られる場でさえ、中心にいる人たちが中心に座り続けている。
そのことに、どうしても違和感が残った。
デザインの世界では、美しさや新しさ、話題性が称賛される。
それ自体が悪いわけではない。
美しい本も、優れた広告も、強いビジュアルも、もちろん必要だと思う。
ただ、その一方で、誰かが生きるために必要な見やすさ、読みやすさ、迷わなさ、間違えにくさは、なかなか同じ熱量では語られない。
それは「地味」なのだろうか。
病院で迷わないこと。
薬を間違えないこと。
申請を諦めずに済むこと。
字幕によって情報にアクセスできること。
文字が読めること。
表示が理解できること。
それらは、十分にデザインの中心に置かれてよいもののはずだ。
けれど実際には、そういう仕事ほど「縁の下」や「社会貢献」や「福祉的なもの」として、クリエイティブの本流から少し外された場所に置かれやすい。
私はそこに、ずっと違和感がある。
病を患ってから、その違和感は以前よりも身体に近いものになった。
普通に歩ける人を前提にした街。
疲れていない人を前提にした情報量。
読める人を前提にした文字。
聞こえる人を前提にしたアナウンス。
迷っても立て直せる人を前提にした導線。
それらが、当たり前の顔をして並んでいる。
その当たり前の中で、少しずつ人はこぼれていく。
そして、そのこぼれていく人たちを見ようとするデザインもまた、業界の中ではこぼれ落ちやすい。
デザインの僻地と呼ばれてきた場所には、本当はずっと人がいたのだと思う。
病院の廊下で案内表示を探す人。
薬の説明書を何度も読み返す人。
書類の前で手が止まる人。
字幕がなければ内容にたどり着けない人。
小さな文字を読むだけで疲れてしまう人。
「普通」の速度についていけない人。
そういう人たちの存在を前提にする仕事は、本当に僻地の仕事なのだろうか。
むしろ、そこにこそデザインの根本があるのではないかと思う。
人を驚かせること。
欲望を刺激すること。
ブランドを魅力的に見せること。
文化的な美しさを作ること。
それらもデザインだ。
けれど、人が迷わないこと。
間違えないこと。
諦めなくて済むこと。
必要な情報にたどり着けること。
自分がそこにいてもよいと思えること。
それもまた、デザインだ。
そして私は、後者の仕事が「真面目だけど地味」と扱われることに、まだ納得できないでいる。
インクルーシブという言葉がきれいに流通するたびに、少し身構えてしまうのは、そのせいかもしれない。
誰が誰を受け入れるのか。
誰が中心にいて、誰が周縁に置かれているのか。
誰の経験が、誰のために使われるのか。
その構図が変わらないまま、言葉だけがやさしくなっていくことがある。
デザインの中心は、どこにあるのか。
誰のための美しさを、美しさと呼んできたのか。
誰の不便を、仕方のないものとして見過ごしてきたのか。
病を患ってから、街を普通に歩く人が羨ましく感じる。
その感情は、ただの個人的な弱さではなく、今まで見えていなかった前提に触れてしまった感覚に近い。
デザインの僻地には、ずっと人がいた。
そこを僻地と呼んできたのは、中心にいる側の都合だったのかもしれない。
