ヘルプマークと批評のないデザイン
ヘルプマークを見るたびに、ずっと複雑な気持ちがあった。
制度としての意義を否定したいわけではない。むしろ、必要な制度だと思う。ヘルプマークは、人工関節や内部障害、妊娠初期など、外見からは分かりづらいが周囲の援助や配慮を必要とする人のために作られたマークである。東京都は2012年10月に制定を発表し、都営地下鉄大江戸線の各駅で配布を始めた。
必要な人が、必要な場面で、配慮を受けやすくなる。
その目的自体は重要だ。
しかし、デザインとして見ると、私はずっと引っかかっていた。
赤い地に、白い十字。
その横にハート。
この組み合わせは、どう見ても赤十字的な文脈を呼び込んでいる。
もちろん、ヘルプマークは赤十字そのものではない。赤十字標章は白地に赤い十字であり、ヘルプマークは赤地に白い十字で、さらにハートが加えられている。だから、形式的には違う。
けれど問題は、法的に同一かどうかだけではない。
公共空間に置かれる記号として、その形がどんな意味の蓄積に乗っているのか。
人々がその形を見て、何を連想するのか。
その連想を、デザインがどこまで自覚的に使っているのか。
そこが気になる。
私は医療分野に慣れていないデザイナーが、病院、クリニック、薬局、医療系サービスのロゴやイラストに、赤い十字を入れてくるのを何十年も毎年のように見ている。
たぶん多くの人にとって、赤い十字は「医療っぽい」「救急っぽい」「ケアっぽい」記号なのだと思う。
しかし、本来の赤十字は医療一般のマークではない。
大阪赤十字病院の説明でも、赤十字マークを病院、救急車、薬箱のマークだと思っていないかと問いかけたうえで、白地に赤い十字は赤十字に関係する活動にしか使用を許されていないマークだと説明している。 日本赤十字社も、赤十字マークは戦争や紛争で傷ついた人々、軍の衛生部隊、赤十字の救護員や施設などを攻撃から守るために使用されるものであり、類似したマークについても法律上の規定があると説明している。
つまり、赤十字は「医療っぽいマーク」ではない。
「やさしさ」や「助け合い」や「福祉」をふんわり示す記号でもない。
それは、戦争、紛争、救護、中立、国際人道法に関わる、非常に重い記号である。
だから、私には赤と十字は安易すぎて使えない。
医療やケアを表したいからといって、赤い十字に手を伸ばすこと自体が、職業的にはかなり危うい。医療分野に慣れていればいるほど、そこは避けるはずだと思う。
その意味で、ヘルプマークはとても複雑に見える。
ヘルプマークは赤十字そのものではない。
しかし、赤十字的な連想から完全に離れているわけでもない。
赤い地に白い十字を置いたとき、人々はそこに医療、救護、保護、緊急性、ケアのようなものを読み込む。
そしてヘルプマークは、その読み込みをかなり効率よく使っている。
赤は目立つ。
十字は強い。
ハートは意味を柔らかくする。
結果として、「何か支援や配慮が必要なのだろう」という印象が一瞬で立ち上がる。
うまい。
しかし、うますぎる。
ここで厄介なのは、このデザインが雑に作られたものではないということだ。
ヘルプマークのデザインには日本グラフィックデザイナー協会、JAGDAが協力し、グラフィックデザインを永井一史氏、プロダクトデザインを柴田文江氏が手がけている。 東京都のPR情報でも、JAGDA、永井一史氏、柴田文江氏の協力が明記されている。
つまり、これは医療分野に慣れていないデザイナーが、赤十字的な記号をうっかり使ってしまった、という話ではない。
むしろ逆だと思う。
赤十字そのものは避ける。
しかし、赤十字的な社会的連想は使う。
白地に赤十字ではなく、赤地に白十字にする。
そこにハートを加えて、救護や医療の硬さを、配慮や思いやりの方向へずらす。
これはかなり高度な判断に見える。
だからこそ、引っかかる。
言ってしまえば、ヘルプマークは、社会の中にすでにある「赤い十字=医療・救急・助け」という「誤読」を、公共デザインの資源として使った未熟な一回限りのデザインではないか。
赤十字そのものではない。
けれど、赤十字的な連想には乗っている。
その連想が社会に広く誤解として流通しているからこそ、マークはすばやく意味を帯びる。
これはデザインとして、たしかに強い。
でも、その強さはどこから来ているのか。
ここに、日本のデザインらしさがよく出ていると思う。
技術的には洗練されている。
物としての完成度も高い。
視認性もある。
携帯性もある。
質感もよい。
公共空間で機能する強さもある。
しかし、思考は浅い。
浅いというのは、造形が未熟だという意味ではない。
むしろ造形はうまい。
問題は、そのうまさが、どのような記号の借用によって成立しているのかを十分に問わないまま、社会に通ってしまうことにある。
「わかればいい」
「目立てばいい」
「機能すればいい」
「普及すれば成功」
デザインの実務には、そういう本音がある。
それ自体は分かる。公共デザインは、美術館に置かれる作品ではない。駅で、電車で、役所で、街中で、一瞬で伝わらなければならない。現場で機能しなければ意味がない。
しかし、「分かる」は無垢ではない。
何によって分かるのか。
どの連想によって分かるのか。
どの誤解を利用して分かるのか。
どの歴史的記号を薄めることで分かるのか。
そこを問わないまま、「社会に定着したから成功」と言ってしまうところに、私は日本のデザインの浅さを見る。
ヘルプマークは、導入当初、記号としてはかなり言葉足らずだったと思う。
マーク単体を見て、それが「外見からは分かりにくいが援助や配慮を必要としている人のためのもの」だと理解するのは難しい。十字とハートから、医療、福祉、献血、救急、ボランティアのようなものは連想できるかもしれない。しかし、それだけで制度的な意味まで読み取ることはできない。
ただ、記号の意味は、必ずしも最初から形の中に内蔵されているわけではない。
駅で見る。
ポスターで見る。
アナウンスで聞く。
ニュースで知る。
自治体が配る。
交通機関が掲出する。
そうした反復によって、意味は社会の中に定着していく。
時間が経てば、人は分かるようになる。
それはその通りだと思う。マタニティマークのように。
けれど、「分かるようになった」ことと、「その形でよかった」ことは同じではない。
「社会で機能した」ことと、「記号として十分に考えられていた」ことも同じではない。
むしろ、ここで必要なのが批評だったはずだ。
なぜ十字なのか。
なぜ赤なのか。
なぜ見えない障害や配慮の必要性を、医療・救護の記号圏に寄せるのか。
赤十字的な連想に乗らない別の公共記号はありえなかったのか。
このマークは、何を可視化し、何を不可視化しているのか。
それは、誰のために分かりやすいのか。
そういう問いが、本来ならもっとあってよかった。
しかし日本では、そこで話が止まりやすい。
有名なデザイナーが作った。
見た目がよい。
物としてよくできている。
社会に広がった。
役に立っている。
それはどれも重要な評価軸ではある。
でも、それだけでは足りない。
デザインは、単に問題を解決する技術ではない。
社会の中に意味を配置する行為でもある。
とくに公共デザインは、人々の認識や行動に関わる。何を見たときに、誰を支援すべきだと思うのか。どんな身体や状態を「助けが必要」として可視化するのか。どの記号を使えば、人々はすぐ反応するのか。そこには、倫理も、制度も、歴史も、権力も関わっている。
それなのに、日本のデザインでは、しばしば技術的な完成度が思考の浅さを覆い隠してしまう。
きれいに作れている。
ちゃんと機能している。
使いやすい。
普及している。
だからよい。
この評価の回路が強すぎる。
もちろん、日本のデザインには強みがある。
物としての精度。
素材感。
印刷や成形の品質。
余白の扱い。
編集感覚。
現場に落とし込む力。
細部を整える力。
それらは本当に高い水準にあると思う。
しかし、その技術的な洗練が、思考の深さと必ずしも結びついていない。
むしろ、うまく作れてしまうからこそ、問いが発生しない。
完成度が高いからこそ、批評が止まる。
権威あるデザイナーが関わっているからこそ、「それで本当にいいのか」が言いにくくなる。
私は、ここに日本のデザインの限界を感じる。
ヘルプマークは悪いデザインではない。
むしろ、よくできたデザインである。
だからこそ、そこにある浅さが見えてしまう。
下手なデザインなら、ただ下手だと言えばいい。
しかしヘルプマークはそうではない。
上手い。
機能している。
社会的にも必要とされている。
そのうえで、危うい。
この「上手いが浅い」という感じが、日本のデザインのある種の典型に見える。
技術はある。
造形もできる。
質感も整えられる。
社会実装もできる。
しかし、その記号がどこから来たのか。
その意味が何に依存しているのか。
その分かりやすさは誰の誤解を前提にしているのか。
そのデザインが社会に何を持ち込むのか。
そこを問う力が弱い。
そして、この批評性の弱さこそ、日本が世界のデザインの議論から置いていかれた理由の一つではないかと思う。
世界のデザインの議論は、すでに見た目の美しさや使いやすさだけでは終わらない。アクセシビリティ、ジェンダー、植民地主義、環境負荷、監視、軍事転用、AI、公共性。デザインがどの制度に接続され、どの権力を補強し、どの身体を前提にしているのかが問われている。
一方で、日本ではいまだに、完成度の高さ、作者の名前、普及実績によって、議論が閉じてしまうことがある。
ヘルプマークは、そのことをよく示している。
制度としては必要だった。
物としてはよくできている。
社会の中で機能もしている。
しかし、その成功は、赤十字という本来は非常に重い標章が、社会の中で「医療っぽいマーク」として薄められて理解されていることに、かなり依存している。
それは単なるデザインのうまさなのか。
それとも、誤解に乗ったデザインなのか。
私は、ここに批評が必要だったと思う。
ヘルプマークを否定したいわけではない。
必要としている人がいる以上、その存在意義は軽く扱えない。
ただ、必要なものだから批評しない、という態度は違う。
社会に役立っているものだから問わない、という態度も違う。
むしろ、社会に広く定着した公共デザインだからこそ、問われるべきことがある。
「わかればいい」というデザインの本音。
それは現場では正しい。
でも、それだけで済ませてしまう社会は、やはり弱い。
ヘルプマークを見て感じる複雑さは、たぶんそこにある。
このマークは、よくできている。
だからこそ、浅い。
そして、ここまでテキストを読めるデザイナーもいない。
そして、その浅さを覆い隠すほどの技術的な洗練にこそ、私は日本のデザインらしさを見てしまう。
