ピーター・ティールとマルセル・デュシャン
競争から降りる人、そして降りたあとに何をするか
ピーター・ティールを見ていると、マルセル・デュシャンを思い出す。
片方は20世紀美術を揺さぶったフランスの芸術家。もう片方はシリコンバレーの投資家であり思想家だ。生きた時代も、相手にしている領域もまったく違う。デュシャンが向き合ったのは芸術制度であり、ティールが向き合っているのは資本主義、テクノロジー、国家、未来といったものだ。
それでも、個人的に妙に重なるところがある。
二人とも、既存のゲームに正面から参加しない人なのだ。
競争から降りる
まず、二人とも逆張りの人である。
デュシャンは、絵画の技巧や作者性、美的価値に逆張りした。芸術家がうまい絵を描き、批評家が評価し、美術館が認定する。そういう芸術制度の前提そのものを疑った。
代表作《泉》は、男性用便器に署名して展覧会に出そうとしたものだ。なお、《泉》については、従来デュシャン作とされてきた一方で、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン作説も注目されており、決着はついていない。
ただ、重要なのは作者が誰かという問題だけではない。作品が突きつけた問いそのものだ。
そもそも、何が芸術なのか。 誰がそれを芸術だと決めるのか。 作品の価値は、物そのものにあるのか、それとも制度や文脈の中で生まれるのか。
デュシャンは、美しいものを作ったというより、芸術が芸術として成立する仕組みそのものを露出させた。
一方、ティールもまた徹底した逆張りの人だ。
競争はよいもの。 オープンな市場はよいもの。 みんなが同じ方向へ努力すれば、未来は自然によくなる。
ティールは、そうした前提にかなり冷たい視線を向ける。
彼にとって重要なのは、競争に勝つことではない。むしろ、競争そのものから離脱し、独占的な位置を作ることだ。「競争なんて負け犬のすること」という彼の有名な挑発には、単なるビジネス論を超えた人間観がある。そこには、ルネ・ジラールの模倣理論の影響も見える。
人は、自分が本当に欲しいものを欲しがっているのではなく、他人が欲しがるものを欲しがる。だから競争が生まれる。みんなが同じものを欲しがり、同じ方向へ走り、同じ評価軸で勝とうとする。
ティールにとって、競争とは模倣の罠なのだ。
ここまでは、よく似ている。だが、降り方が違う。
デュシャンは、競争から降りることで「勝つこと」そのものを無効化した。 ティールは、競争から降りることで「より完全に勝つこと」を考えた。
制度の中心近くにいる反逆者
二人とも、制度の外部にいる純粋な反逆者ではない。
デュシャンは、美術制度の外側から石を投げた人ではなかった。展覧会、批評家、美術館、前衛芸術家のネットワーク。その中心にかなり近い場所にいながら、内部から制度をずらした人だった。
だからこそ、彼の行為は意味がある。まったく外側の人間が「芸術なんてくだらない」と言っても、それは単なる拒絶で終わる。しかし、制度の内部にいる人間が、認定装置そのものを露出させると、話が変わる。《泉》は、便器が「作品」として置かれた瞬間、制度的な美術を露呈するのだ。
ティールも、資本主義の外部から資本主義を批判しているわけではない。PayPal、Palantir、Facebookへの初期投資、ベンチャーキャピタル、スタートアップ、大学エリート、国家権力。彼は資本主義とテクノロジーの中心にかなり近い場所にいる。その中心にいながら、競争、市場、民主的な凡庸さ、大学的な同調圧力を疑っている。
つまり二人とも、内部の反逆者である。
ただし、内部にいて何をするかが違う。デュシャンは、制度の中心が実は空っぽであることを見せる。ティールは、中心に立つべき者が間違っていると言う。一方は内部を空洞化し、もう一方は内部を組み替えようとする。
この差が、最後まで効いてくる。
チェス的な知性
二人には、チェス的な知性も共通している。
デュシャンはチェスに深く傾倒し、芸術家という役割からひらりと逃げた。作品を作り続けること、芸術家として評価され続けること、前衛であり続けること。そうした期待から、身をかわすようにチェスへ向かった。
芸術の世界には、批評家がいる。市場がある。美術館がある。作家同士の付き合いがある。名声がある。解釈がある。 チェスには、盤面がある。駒がある。ルールがある。思考がある。
デュシャンにとってチェスは、芸術家であることから降りるための場所でもあったのだと思う。
ティールも若い頃からかなり深くチェスに打ち込んでいた人物だ。盤面を読む。人が集まる場所を避ける。相手の欲望を読む。序盤で非対称な優位を作り、終盤で不可逆な勝ち筋を確定する。
ただし、デュシャンが盤面の美しさに向かうのに対し、ティールは盤面の支配に向かう。同じチェスでも、片方にとっては純粋な形式であり、もう片方にとっては世界を読むための戦略なのだ。
決定的な違いはユーモアがあるかないか。
最大の違いは、ユーモアである。
デュシャンには、冷笑も脱力も悪戯もある。便器を置く。モナ・リザに髭を描く。作者名をずらす。芸術なのか冗談なのか、その境界をわざと曖昧にする。
そこには、「そんなに芸術をありがたがる必要があるのか」という皮肉がある。
しかも、デュシャンが馬鹿にしていたのは、単に大衆ではなかったと思う。むしろ彼がより冷たく見ていたのは、芸術家同士の付き合いだったのではないか。
「大衆にはわからない」と言いながら、芸術家たちが互いを承認し合う空気。 前衛であることが、また一つの制度になる瞬間。 反逆者たちが、反逆者の共同体を作り、その中で序列や権威を生んでいく過程。
デュシャンは、そこにかなり冷めていた。
彼のユーモアは、単なる茶目っ気ではない。権威が固まることへの反逆なのだと思う。
一方、ティールにはその種のユーモアがない。
もちろん、ティールは挑発的で、逆張りで、常識を疑う人ではある。しかし態度はあくまで真面目だ。競争をからかっているのではなく、本当に悪い構造だと見ている。大衆を笑っているのではなく、多数派には真実が見えていないと考えている。未来を皮肉っているのではなく、未来を作る少数者が必要だと本気で考えている。
この真面目さが、ティールの魅力でもあり、危うさでもある。
ティールの言葉は鋭い。しかし、鋭い言葉は信奉者を生みやすい。
「競争から降りろ」 「独占を作れ」 「隠された真実を見つけろ」 「多数派とは違う場所に行け」
これらは、最初は反制度的な言葉に聞こえる。しかし、それを信じる人々が集まりはじめると、すぐに新しい制度になる。
反権威と、反多数派
この違いは、反逆の性質そのものの差でもある。
デュシャンの反逆は、反権威的である。権威そのものを疑う。 ティールの反逆は、反多数派的である。凡庸な多数派を疑う。
デュシャンの背景には、第一次世界大戦を経たダダイズム的な不信がある。近代文明も理性も進歩も芸術も、あれほど立派な顔をしながら戦争の惨禍を生んだ。その後で、芸術だけが高尚な顔をしていられるのか。そういう冷めた笑いがある。デュシャンのシニシズムは、芸術が深刻ぶっていることへの拒否に近い。
一方、ティールの反逆は、より深い意味でエリート主義的である。
大多数は真実を見抜けない。 本当に重要なことは少数者だけが理解する。 未来は自然に開かれるのではなく、見えている者が作る。
これは冗談ではない。ティールは、かなり本気でそう考えているように見える。
デュシャンが芸術の深刻ぶりを疑っていたとすれば、ティールは現代社会が深刻さを失ったことを嘆いている。一方は重すぎる制度を軽くし、もう一方は軽くなった世界にもう一度重さを持ち込もうとする。
ティールはデュシャンに一目置く。だが——
ティールは、デュシャンのような人がいたら、おそらく一目置くだろう。
デュシャンは、まさに競争から離脱した人だった。他人と同じゲームをせず、制度の盲点を突き、ほとんど何も作らないことで美術史に巨大な影響を与えた。既存の競争で勝ったのではない。競争のルールそのものを変えた。ティール的に言えば、これは非常に優れた「ゼロから1」の身振りかもしれない。
しかし、デュシャンはティールの真面目さを笑うだろう。
デュシャンにとっては、「天才」も「反逆者」も「未来を見抜く少数者」も、すべて制度が作る役割にすぎない。台座に乗せられた瞬間に、それは滑稽になる。
かつて芸術家たちが「われわれには大衆に見えないものが見えている」と言ったように、今度は創業者や投資家が「われわれには群衆に見えない未来が見える」と言いはじめる。デュシャンから見れば、そこにはまた新しい祭壇ができているように見えるのではないか。
思い出すのは、2016年の共和党大会での演説だ。ティールは壇上でこう言った。「私は会社を建てる(build)。そしてトランプは建てる者(builder)だ。いまこそアメリカを建て直す(rebuild)ときだ」と。自分を、そしてトランプを、彼は「建てる者」と呼んだ。
降りる人ではなく、作る人。彼は自分をそう定義している。
独占。 創業者。 秘密。 未来。 少数者。 そして、ビルダー。
どれも強い言葉だ。しかし、強い言葉はすぐに信仰になる。
デュシャンは、その信仰が立ち上がる瞬間を見逃さない。
ティールはデュシャンに一目置く。デュシャンはティールを面白がりながらも、最後には少し笑って、「無意味なことだよ」と言うかもしれない。
最後に残るもの
20代のころ、私はデュシャンに影響を受けた。
惹かれていたのは、彼の「降りること」だったと思う。 芸術のゲームから降りる。 作家であることから降りる。 勝つことからも、評価されることからも、少し身をかわす。
いま私は、ティールに興味を持っている。
惹かれているのは、たぶん彼の「作ること」だ。 競争から降りたあとに、別の場所を作ること。 多数派が見落としているものを見つけること。 未来は自然に来るものではなく、誰かが作るものだと考えること。
デュシャンは、制度を空洞化する。 ティールは、別の秩序を立ち上げようとする。
どちらにも惹かれるということは、自分の中に、制度を疑いたい感覚と、制度を作る者への関心が同時にあるということなのかもしれない。
ただ、最後に残るのは、やはりデュシャンの笑いなのかもしれない。
どれほど新しい秩序を作っても、どれほど競争から離脱しても、どれほど少数者だけが見抜く真実を語っても、それが人々のあいだで崇拝され、模倣され、共同体になった瞬間に、また別の制度になる。
デュシャンなら、そこに《便器》を置くかもしれない。
それはティールを否定するためではない。そしてティールは、たぶんその便器を見て、真顔で考え込む。
怒るのではなく、考え込む。
彼は強靭な知性の持ち主で、なにより真面目だから。
デュシャンにしたら、また引っかかったという感じかもしれない。
