先月開業した銀座の商業施設ギンザシックスへ移転された観世能楽堂に、能を観に行きました。仕事に追われてすっかりご無沙汰でしたが、私は能と狂言が好きです。サッカーを観るのも好きで、それはテレビでもいいんですけど、能はテレビでは難しいです。能は空間そのものを感じます。
能には複式夢幻能という形式があります。諸国一見の僧が昼間に会った人物が、実は土地に縁ある幽霊で、夜中に枕元に立つというスタイルです。幽霊は歴戦の兵(つわもの)であったり、歴史上の著名な人物です。彼(彼女)らは伝説的な英雄でありながら、極めて現世的な執着を強く持っています。その語りを聞くことで過去と現在、生と死、そして真実と虚構の境目が危うい空間に、観客は足を踏み入れます。
神と修羅と恋。幽霊は自分の武勇伝や恋物語など語り、舞を舞うと、夜明けとともにすっと消えていきます。それが夢だったのか幻だったのか、居酒屋で変なおっちゃんに絡まれただけなのか、わからないわけですね。それは観ている人自身の想いや妄執なのかもしれません。その現実とひとつづきであるという感覚が本質的に感じられるので、拍手はしない方が私は好みですね。能は眠くなりますけど、うっかりすると彼岸に渡りかねない危うさがあります。
盛者必衰諸行無常。二十六世観世宗家で当代である観世清和氏が「能は供養」と言っていましたが、それは私たち自身が取り憑かれている妄執への供養でもあるわけです。
人は死んでも、その人に取り憑いた妄執や情念は残るんじゃないかとすら感じますが、激しい情熱や恨み辛み、身を焦がすような恋心やその痛み喜びも、やはりいつか終わりがきます。そこには生身のものは何もなくなり、過去も現在もない。観念だけが残る。能は私たちのやっていることが確かに過去の延長線上にあり、そして実は今もあまり変わっていないことを表現します。
能面の裏側には何もない。きらびやかで美しい衣装の中にも、実は人間は入っていない。私はそのように感じます。そうすると、能は空っぽで観念を入れる器のようです。それは究極的にデザインされたものです。
私はデザインの本質も空っぽであり「器」だと考えています。器の中には何もありませんが、器の形に合わせて人の思想なり感性が生まれる。鋳型にはめるより、器にすっと盛る感覚です。
現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館で展覧会が行われているコム・デ・ギャルソンなどは、思想の器としてのファッション・デザインの代表といえるのではないでしょうか。
良いスーツは背筋が自然にスッと伸びるとも言います。同じようにきちんと整理された情報は、読む人に「スッと」伝わるでしょう。日本を代表するデザイナーであった田中一光(1930-2002)は観世能のグラフィックデザインをずっと手がけておりましたが、やはり親しいものがあるのだと思います。
物欲、名誉欲、色欲…生きるということはそれらがなければ継続しないことなのかもしれませんが、夾雑物が多い世界で、私はいつもそういった空っぽなものを探しています。それは貨幣価値や経済的な効率に変換されないささやかな救済であり、いつかは終わる、空であるということが根源的なモチベーションに繋がるように思います。