昔、広告代理店にいた頃、大きな医療用医薬品の競合プレゼンに参加した。
若いデザイナーだった僕がひねり出したキャンペーンのアイディアにチーム全員が沈黙したことがあった。
そして、そこにいたプレゼンの責任者は僕の話を「はいはい。よく頑張ったね」というかんじで流して、そのまま無かったことにしてしまった。
もう15年以上前の話だが、そのプレゼンは勝ちとることができて、その時に私が作った小児用ワクチンのロゴは今も使われている。
ともあれ、私は自分のアイディアが取るに足らないものか、方向性を間違えていたのだと恥ずかしく思ったものだ。
だが、その後の飲み会で営業の人に「川名さん、あのアイディアすごく良かったですよ。もっとガンガン押さなきゃダメですよ」と言われた。
いやいや、その場でそのように言ってくださいと思ったのだが、これはおそらく洋の東西を問わない社会性を持つ生き物らしい特性で、人は新しいことに対して判断を保留して、その場で空気を読み合って沈黙する。
その意味で、マーチン・L・キングがいう「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である」はかなり正しい。
人は慣習(悪習でも)を破られると沈黙する。正しいとか間違っているという問題以前に、判断を保留する。
それは処世術としては、おそらく正しい。
誰か権力者の決断を待って、長いものに巻かれるに越したことはない。
そこに悪人がいる訳ではないが、出る杭は打たれ、創造的かつ挑戦的なアイディアはゴミ箱に行くことになる。
だが経験を重ねそういった状況に慣れてくると、逆にこれはチャンスだとわかる。多くの人が沈黙するときは、アイディアが新しい時だと逆説的に判断できる。
そして、判断を保留する人たちは相手にせず、決裁権を持つ人のみをターゲットとして説得にかかる。
決裁権を持つ人を説得できれば、後の人はオセロのコマのようにひっくり返るのだ。
独立以降、私はこの状況をかなり積極的に利用して、周囲が沈黙するときこそ、一気にたたみかけるようにする技術を、自然と身につけたように思う。
自分が世の中から無視されているように感じる時は、自分の持っているアイディアが素晴らしく新しい時なのだ。
そして、味方は必ずいる。
全てが終わったあとで「素晴らしいアイディアでしたよ」と耳打ちしてくれる程度かもしれないが。