オリンピックという「雰囲気」

メディアもSNSもすごい速さでオリンピックムードに染ったことに少し驚いている。強硬に推進してきた人達は始まってしまえばこうなることがわかっていたのかもしれない。

オリンピックは日本社会の競争原理のロールモデルとして機能してきたように思う。1位と2位の能力差はほとんど存在しないが、金メダルと銀メダルの扱いの差は圧倒的だ。

我々の社会は序列を大袈裟に拡大して、様々な点で優位差をつけることで構造化して成立してきたが、そういった仕組みは少し平成に置いてきても良かったと思う。

競争は悪くないが、アイディアや論理なき過剰な競争は、政治かビジネスになり、解決は「力づく」か「雰囲気」となる。
何より「日本は世界と闘える」という時代錯誤なノスタルジーを補完することで、日本を世界に追いつくよりは、さらに周回遅れにするだろう。

メダルを取った人は賞賛され、そうでない人は残念と表現される風潮も相変らずだ。オリンピックから順位と国籍をはぎ取ってみたら、我々が何を見てるかよりわかりやすいのではないか。

最早スポーツを政治や社会、メンタルの在り方にまで過剰に敷衍する時代でも無い。合理性が支配する、テクノロジーがリードする世界においても、「スポーツは感動であり、精神を養い、それが社会生活にも人格形成にも役立つ」というムードが必要以上に強いのは驚くべきことだ。

それより、スポーツはシンプルに日常における小さな満足と各個人の「健康」に結び付けた方が、よほど健全な思想だろう。そこから強烈な喜びを引き出すのは、一部のプロフェッショナルであり、実用性に乏しい例外的なケースなのだ。

オリンピックを見て、私も明日から運動しようと思うのならばまだ良いが、多くの人が感じるのは、それが決定的にお祭り、ショービジネスであり、日常生活からの乖離ではないか。

明らかに熱狂から取り残される人たちが出てくるだろう。
コロナ禍で生活に困窮している方々や、飲食店やそのご家族。そこに小さいお子さんがいることもある。

アスリートは4年間の修練を発揮する華やかな場が与えられる。それは良いことだ。
スポーツを否定しているのではない。

しかし、小さな家族がいる飲食店を筆頭とした我々、一般市民の日常は。
人生の難所にいるような方々に、そこをきちんと整理して伝えられているだろうか。
現状、政治は誤ったメッセージを発信しかねない。