命に関わる損をさせても「表現の自由」なのか 健康本を巡る出版関係者の思い【BuzzFeed News】(2017/09/12)
これ難しい問題ですね。私も医療関係の出版社さんや編集者さんとお付き合いありますが、専門性の高い内容をどう精査するのかというのは、知識や経験がある編集者でも難しいのに、最後の受け皿になってしまうデザイナーはより苦労しますね。やっぱり“文字書き屋さん” “デザイン屋さん”が便利ということになってしまうんでしょう。私の知人にもそういった苦労をしている方がいるから声が生生しく聞こえます。
健康本ではないですが、広告代理店を辞める直前くらいに携わった医薬品でその後副作用問題が出て、それは大した仕事をしたわけでもなかったんですが、喉に刺さった小骨のようにずっと忘れられずにいました。私も言われるがまま、誰かの命や人生に関わる損をさせたのではないかと。
しかし最近は、副作用であるというエビデンスが非常にあやしいということが優勢になり、専門家ではない自分はなるべく最新の情報をあたるしかないのですが、ずっと気にしております。
どのような仕事でもそうかもしれませんが、真面目に仕事をしているつもりでもそういうことはある。でも、そこから「その商品は本当に社会に有益なのか」という根本を考えなくとも、それなりに優秀なサラリーマンデザイナーだった自分の仕事の意味、あるいは広告屋の意義を多少考えるようになりました。
それは本当に社会にとって有益なのか
本来的には「伝えたい」情報があるということと、その情報を「伝わる」形にするために編集すること、さらに視覚的にわかりやすく構成することは別個の職能で、対等の立場であるのが望ましい。
装丁家の菊地信義氏は「小説が監督によって映画になるように、装丁家によって本になる」と言っていましたが、小説だけの話ではないと思います。しかし、この仕事には「誰かが儲かった/損した」という単なるビジネスとは性質が違う社会的な責任が伴いますし、やはり小説や映画のようには扱えないのかなと。
この業界に携わる方々は、クリエイティブな能力を何となくでも「人の役に立てたい」と思っている人が多いし、はたから見るほど誰かが儲かっているわけでもない。有名になるわけでもない、お洒落でもない地味な仕事です。大切な情報は、誰かが的確に伝わる形にデザインしなければならない。しかし「的確」の匙加減は誰がみるのか。命に関わる損をさせても「デザイン」なのかと自問します。