デザイナーはゼロからコンセプトを作ってはいけないと誰かが決めたのだろうか

こういう事を言うと、顰蹙を買いやすいのだが。

デザインは、ウェブにしろグラフィックにしろ建築にしろ、スタイルの話になりやすく、その分だけ表面的であり、何かを入れる「器」を競う話になりやすい(デジタル領域、特にスタートアップは情報の効率化、加速されたデザインがそのサービスの本質となることがある)。

だが私は、物事の本質はそこなのかといつも不思議に思っていた。

だからグラフィックデザイナーの頃から、「紙」とか「印刷」とか「文字組み」とか、異常な執着を見せるデザイナーたちをちょっと不思議だと思っていた。

上司や著名なデザイナーにこういった疑問をぶつけると露骨に不機嫌になったり、激怒されたこともある。

モンブランの万年筆は美しいが、100均ペンでもその機能は満たせる。字を書くというコンセプトは一緒だ。

ラーメンの丼がウェッジウッドだったら、ラーメンが美味しく感じるだろうか。そうかもしれないが、まずラーメンが美味しくないと売れないだろう。

どんなに美しい美術館でも、美術品が収蔵されていなければ機能しない。まず美術品に価値があり、美術館はそれを満足のいく見せ方をするための「器」というべきだろう。

ブラッシュアップはビジネスとしては悪くないが、デザイナーはゼロからコンセプトを作ってはいけないと誰かが決めたのだろうか?

最終的な決定権はクライアントにあるのは当たり前だが、常にそれしかなくて、自分のアイディアをゴリ押しするデザイナーは「クリエイティブ」なのか?

役員が集うような「上流工程」の会議に混ざって、自分の意見を挟めれば満足なのか?

自分で作りあげればいい。デザイナーには全てが揃っている訳ではないが、ゼロイチを生み出すために使える技術がある。

荒々しく未完成でもゼロから創り出すデザインがもっとあって良いではないか。私以上に上手いデザイナーはごまんといるはずなのに。

SIGNS OF LIFE™はTシャツという器でもあるが、グラフィックデザインの技術を使って、安価にコンセプトを乗せられる。

門外観の私は業界の慣習にとらわれる必要もなく、今の私の「気分を表現する」ちょうどよい武器だと思った。