たまに焼肉を食べたいって思うじゃないですか。
私は定期的にあります。美味しそうだなよなあって。
でも、いざ食べてみると、頭の中で空想してた焼肉の方がもっと美味しかったような気がします。
イメージって事実に先行すると思うんですね。
テレビで見ていた可愛いアイドルが実際にみるとそうでもなかった(失礼ですね)みたいな。
私の仕事でいうと、作ったものが印刷物であがってくると、「あれ、こんな程度の出来栄え?」ってなる場合ですね。
もちろん逆も真なりです。想像以上に素晴らしい場合もある。
でも期待していたものが想像より素晴らしいことは、そんなにない。
そんなことが続くなら、それは「普通」ということになります。
とにかくイメージは、現実とズレる。
それには当然、ネガティブな場合とポジティブな場合があり、また評価が簡単に入れかわる不安定さがあります。
でも、しばらく現実と摺り合わせをしていくと、イメージとのズレが補正されます。
理想と現実が入り混じって、より安定した堅牢なイメージを作ります。
なんか三島由紀夫の金閣寺でも似たような話があった気がしますけど、イメージがとにかく強いという人もいますね。
で、堅牢なイメージは他の人のイメージに入り込むわけです。
現実はどうあっても一つで、みんなで共有しているつもりでも、強いイメージもある程度人々の間で共有される。
共有されたイメージは現実であるとも言えますし、そうすると現実というものをたった一つだけと考えるのはちょっと違うのかもしれません。
私の仕事は本質的にはイメージを先行させて共有する、そういったことの技術的な側面に携わっていると思います。
多くの人は、希望や未来へのポジティブなイメージを心のどこか(つまり現実)に持たないと生きていけない。
魯迅の「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる」ではないですが、「ここに道がある」と誰かが気づいたら、それを効果的に人様にお伝えするのが私の仕事ではないかと。
社会的な地位とか可愛い彼女が欲しいなどは、実にわかりやすいですね。
いきなりやってくる某ステーキ屋さんの看板をみると、「この世には存在しない」という点においてイメージの塊だなと思う。
一方で、人には色々な状況があって、晴れた空が美しいとか逆に雨が降る日が好きとか、それも各々のイメージなんだと思います。
週に一回唐揚げを食べている人と、20年ぶりに食べた人では唐揚げのイメージは全く違うように、イメージには個別性があります。
本質的には理想やイメージは一人一人の単位で存在するし、それこそがその人にとっての現実ということです。
当たり前なんですけど他人の現実は尊重した方がよくて、アートとデザインの境目ってのも一つはその辺にあるのかなって思ったりします。