「患者にも家族にも配慮がない」「誤解を招く」 厚労省の「人生会議」PRポスターに患者ら猛反発(buzzfeed)(2019/11/26 16:50)
弊社としてこの案件(人生会議の公知にする一連のプロモーション)に携わる可能性がありましたが、これはどうやっても物議を醸すとすぐに思いました。
「人生会議」というネーミングから賛否があったので、それくらいは想像できます。
広告会社の担当者と相談した結果、センシティブすぎる案件だから今回は見送ろうとなりました。
端的にいって、人生会議という言葉の捉える意味が、受け皿となる社会にとってまだまだ広すぎるため、自分たちの手に余ると考えました。
結果として火中の栗に手を出さなかったのは幸運だったのかもしれませんが、広告会社の担当者が「どうしてもやりたい」と言えばコンペに参加していたかもしれません。
それ自体は社会に資する内容であったはずですし、言うならば誰かがやらなければならなかったのではないでしょうか。
個人的には何らかの覚悟を持って出したのかと思ったので、すぐに引っ込めたことこそ意外というか「その程度だったのか」という印象すらありますし、そのことでだいぶ意味合いが変わってしまったと思います。
PR動画も作られていたようですので、より内容を理解できるものだったのかどうか(あるいは真逆かもしれませんが)。全容を把握する機会は失われたようです。
それでも無意味だったとは思いませんが、関わったデザイナーに対しては「お気の毒さま」というか、何も知らない人が何も知らないままやったのだろうと思います。
デザイナーと成果物はどのような関係か
多くの場合、デザイナーは最終の意思決定者には程遠いです。
組織(チーム)というものは上層から下層まで不可逆的な意思決定プロセスを持つことで、効率的に力を発揮します。
デザイナーに限りませんが裁量がない者が「止めたほうがいいんじゃないの」と思っても簡単に止められるものでもない。
それは仕組みとして、そのように出来ている。
でも、そのうえで私が関わっていたら、こうはならなかったかなと思います。
結局、その人が普段考えていることや身振りとして身に付いていることが、デザイン的な所作として現れます。
私はデザイナーもこういった問題を普段からもっと考えた方がよい、少なくとも触れたほうがよい、と思います。
医師や医療者のような専門知識を身に付けろというわけではなく、今のデザイナーは社会に対してあまりにも純朴な子供のようです。
厚労省の方には「こういった表現はまずい」というのは世間知に近い形であったはずです。
変な言い方ですが、こういう提案がなければ、こんなことを思いつく方々ではないでしょう。
それをビジュアルとタレントのインパクトで目眩ましされてしまった。
よく「山に入ったら、山の頂上は見えない」とお伝えしておりますが、主体となってプロジェクトに参加した瞬間から客観的に課題を眺めることは難しくなります。
このビジュアルが患者と家族を置き去りにしても普通に「ウケる」と思って世に放ったならば、それはピントがずれていたと思います。
制作サイドはこの世に病気になる人がいて、寄り添う家族、そしてそれを支える医療者がいるという事実が想像できなかったのかもしれません。
答えのでない問題にデザイナーはどう向き合うか
その意味でも、デザイナーは純朴な少年のような顔で、エンタメを追求しているだけの時代ではない。
古くはデザイナーは答えを出すことで評価されてきましたが、答えのでない問題にどう向き合うか。
医療や社会に関わるデザインは生活の根幹にあるにも関わらず、エンタメやアートの真似事のような傾向は、デザインをとても不自由なものにしています。
デザイナーは一歩離れて、きちんとした社会性を持った提案ができなければならない。
イノベーションだの社会貢献だの大風呂敷を広げろというわけではなくて、特に若いデザイナーには社会の暗がりの中で瞬く光のようなものに、目を凝らしてほしいと思います。
デザイナーは情報の最後のバトンを受け取ります。
そこには大きな責任もありますが、広大な自由もあります。
「コンセプトは決まっている」
「コピーは決まっている」
「タレントは決まっている」
「えげつないほど強烈にいけ」
与えられる状況は様々ですが、最後に手を動かすのはデザイナーです。
他人には決してわからないさじ加減一つ(色の強さ、文字のバランス、写真の選び方など)で、結果を様々に動かすことができるのです。
その意味でどれだけ成約があっても表現は無限であり、デザインは言葉や制約が語られる外側で「その成果物の在り方」を決めることができます。
成果物に対して社会的な責任はなく、道義的な責任すらないとしても、携わったデザイナーしかわからない「自分の表現に対する責任と自尊心」があるはずです。
「多くの人を資するために少数の尊厳を踏みにじっていないか」
「自分の仕事は世の中を少しマシに出来るかもしれない」
もしも携わっていたデザイナー(とチーム)にそういった継続された思考と覚悟があれば、より違った結果になったのではないでしょうか。