大抵、興味を持った本は図書館でまず探すのですが、残念ながら見当たらず、古本で手頃な値段だったので購入しました。レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を翻訳した文化人類学者である川田順造氏のエッセイです。レヴィ=ストロースの本は難渋ですが、西洋的な知性で世界を見ないということ、ブリコラージュ(「器用仕事」。「修繕」とか「寄せ集め」といった意味)をある種の方法論として捉えたという点において、今に至るまで私は感化されていると思います。
もちろん内容に興味があり、デザインに関わる好奇心は全くなかったのですが、ひと目見た瞬間に表紙に惹かれてしまいました。考えて見ると、古書を購入したのは久しぶりで、平たく言うと一周まわって新鮮にみえたということでしょうか。奥付を見ると、昭和51年初版となっていて、今からほとんど40年前のものです。
一見素っ気ない、中心を持たないような写真が素晴らしく、それを活かすようにデザインを主張しないレイアウトと、帯に敷かれた淡黄緑が効果的だと思います。タイトルも何でもないように見えますが、コンピューターで作られたデザインにはない、一字一字の間に思考した「痕跡」を感じさせます。著名なデザイナーの手にかかったものではないと思いますが、時代や流行を超えて残った、ある種の美しさがあります。
中身を広げてみると文字が細かく、自分が普段行っている字詰や行間と全く違う、新鮮なバランスを感じました。読点が濃く見えるのは読みやすさを考慮したのだろうか、自分だったらもう少し書体は太くしてもよいか、ノンブルは上にあるのかなど想像が広がります。力強いけれど厚かましくはない、逆に媚びてもこない印象です。我々が生きるということは、どうしても声高に主張し、時には厚かましくならざるえない時がありますが、時代を超えるというのはそれとは無関係なのだと思います。
■ ただ一つ、一度きりであるということ
昔ながらの写植や活版印刷がいいという感傷的なアナクロニズムではなく、文字の一字一字の間における試行錯誤の痕跡が力強さとなって表れるということなのです。その手段はアナログでもよい、デジタルでもよいのです。
例えば写真でもそうです。「花」だったら綺麗な写真がネット上にいくらでもあります。撮影のためスタジオを押さえてカメラマンを手配して段取りをとると、コストも時間も膨大となります。あなたが華道家か花屋さんでもない限り、効率という観点からは、撮影は現実的な手段ではないでしょう。しかし、それでも質という観点から言えば、カメラマンが超一流でなくとも、100点満点の見事な花束でなくとも、きちんと撮影した花は既成の写真を上回ります。なぜならそれはただ一つの目的のために一度きりのもの、その時、その場にいた人達が思考したというたった一つの痕跡を閉じ込めることができるからです。これは理想論でも抽象でもなく、経験してきた事実としてそうです。
自分という個人なり事業なりがこの世の中でたった一つであるならば、それを表現する際には、時間とコストが許す限り、ただ一つのものを使うべき、あるいは目指すべきです。それが新しい価値なりサービスを、社会に提案するということに繋がるのではないかと思います。
今の時代、短い言葉はスマートフォンから打ってしまえば3秒もかからず相手に届いてしまいます。でもそこにどれだけの想いが込められているか、たった一つのものであるかによって、人が受ける印象は全く違うのではないでしょうか。
アナログに還るのではなく、デジタルでもそういった「人の想い」を載せられるならば、それはきっと素晴らしいものとなるでしょう。現代に生きる我々はとにかく物事を加速させることばかり求めがちで、それに乗り遅れるわけにもいきません。しかし、ふと立ち止まって考える瞬間があった方がよいのではないかと思います。
時々デザインから新しさを取ったら何が残るのかと考えますが、こういった書籍を眺めていると少し答えが見えそうな気がします。
〈317夜『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース|松岡正剛の千夜千冊〉